真宗教義の特色の一つは悪人正機説です。
真宗教義の根本とされる『大経』の第十八願には
たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽してわが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。
とあって、十方の衆生を救うことができなかったならば、仏にはならないと誓ってあります。だから阿弥陀仏の救いは普遍平等の救いであります。
ところがその第十八願の終わりに
ただ五逆と誹謗正法とをば除く。
「ただ五逆と~除く」という、抑止文がついています。五逆罪と謗法罪の者は除かれるというのですから、除外例を認めたことになります。
除外例を認める以上は、十方衆生ではないことになります。阿弥陀仏は果たして約束違反されるのでしょうか。
これに関して、古くから「逆謗除取(ぎゃくほうじしゅ)」という議論がされてきました。
「逆謗除取」というのは、直接には『大経』には五逆・謗法ともに除かれると説いてあるが、『観経』には五逆の者は救われると説いてあるところから生じたものであります。
この問題については中国の懐感禅師の『群疑論』に15人の説が列挙されています。
その中に真宗相承の祖師といわれる曇鸞大師の説は3番目に、善導大師の説は9番目に紹介されています。
親鸞聖人はその両師の説と、さらに『涅槃経』の「難化の三機」(五逆・謗法・闡提)の説を挙げて
ここをもつていま大聖(釈尊)の真説によるに、難化の三機、難治の三病は、大悲の弘誓を憑み、利他の信海に帰すれば、これを矜哀して治す、これを憐憫して療したまふ。
と説いておられます。
「大悲の弘誓を憑み、利他の信海に帰する」ことによって、みな一様に平等の利益を得ると、本願の誓いに間違いないと示されるのであります。しかもそれを照明するのに、次のようなたとえを引いておられます。
たとへば一人にして七子あらん。この七子のなかに一子病に遇へば、父母の心平等ならざるにあらざれども、しかるに病子において心すなはちひとへに重きがごとし。大王、如来もまたしかなり。
ここに病子というのは、仏に背く五逆謗法の人たちであります。その五逆謗法の悪人こそ、仏の救済の対象であります。
しかし注意せねばならないことは、仏は悪人を好まれるのではありません。憐憫されるのです。憐憫の対象となるものこそ我らであります。
聖人の抑止文の理解は、上述の「信巻」の逆謗除取釈によってわかります。もっとも現実に厳しい言葉として出てくるのは、晩年の『尊号真像銘文』の文です。
「唯除」といふはただ除くといふことばなり。五逆のつみびとをきらひ誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。
文中の「五逆のつみびとをきらひ誹謗のおもきとがをしらせんとなり」とは、かかる罪を犯してはならぬと誡められるのであり、「このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべし」と示して、平等の救いであることを教えられるのです。
この『尊号真像銘文』の文は、聖人の83歳と85歳の時と2本があります。そのころ忘れてはならないのは、84歳のときに息子の善鸞を義絶したことであります。聖人はその善鸞の言動について、御消息に次のように述べておられます。
第十八の本願をば、しぼめるはなにたとへて、人ごとにみなすてまゐらせたりときこゆること、まことに謗法のとが、また五逆の罪を好みて、人を損じまどはさるること、かなしきことなり。
善鸞の所行は五逆謗法であると叱り、「いまは親といふことあるべからず、子とおもふことおもひきりたり。」と義絶の宣言をされたのであります。しかし言葉は厳しい叱責であるけれども、その内心の心情はそれと反対ではなかったのではないでしょうか。
ここに本願の上に悪人正機の意味が見られるとともに、悪人正機とは自分の側からいえる言葉ではなく、仏の側から常に憐憫の心をもって、私一人のために注がれる言葉であることを銘記したいものであります。
(村上速水和上「抑止文」の味わい)