カタカナ語

昔、文章技術を向上させるために、何冊か関係書籍を読んでいました。


よく目にしたのが「カタカナ語の濫用しない」という注意です。ある本には「伝わりにくいだけでなく、発言者の頭が悪く見える」と、割と辛辣な言葉が添えられていました。

たとえば最近は「ロックダウン」「オーバーシュート」「クラスター」といった言葉はよく聞きますし、「アジェンダ」「タスク」「エビデンス」「アサイン」という言葉も周りの人がよく使っています。

日本語で言うとハッキリと意味が伝わってしまうから、なんとなく雰囲気で伝えようとするシャイな日本人気質の表れなのか、それとも欧米コンプレックスや「横文字で話せる自分はイケてる」という勘違いからくる言動なのか、真意はわかりません。

私の知り合いにもやたらとカタカナ語を使いたがる人がいます。一生懸命に慣れないカタカナ語で自信満々に話す姿を見ていると、「もしかしたら自分の自信のなさの表れなのかな……」と邪推してしまいます。

聞いていて意味は分かるので私は気になりませんが、「シャイ」とか「コンプレックス」みたいな言葉以外は使わないようしています。


蓮如上人がそうであったように、なるべく時代に合った広く伝わる言葉を用いるのは僧侶が布教する現場においても同様です。

といっても、カタカナ語とはまったく扱いが違います。例えば「本願」や「信心」は、馴染みのない人も多いかもしれませんが、浄土真宗では教義の根幹を成す大切な言葉です。

一方で「初めての人に伝わらないから本願とか信心とか使うべきでない」とおっしゃる過激派も最近は見受けられます。
さすがに親鸞聖人の言葉を捨てるのは……そもそも「本願とは」「信心とは」と、しっかりと言葉の説明をすれば済む話です。

難しい言葉を使わずにすべてが伝わればそれに越したことはありませんが、専門言葉を説明しながら話し手と聞き手が共通した言語を持つことで伝わりやすくなる場面もたくさんあります。

もしかしたら「専門用語を使うと聞いている人は分からない」という決めつけや先入観こそが、聞き手を遠ざけて下に見ている行為なのかもしれません。

合掌

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2020年06月12日