築地本願寺は先週から事務所が閉鎖され、職員さんたちは自宅待機を命じられているそうです。
私は稱名寺の事務を進めつつ、以前にご紹介した「配信布教」の取り組みサポートすることになりました。
新型コロナウィルス感染症の影響により、お寺から法要や法座を配信する僧侶の方々が増えています。
とても素晴らしい取り組みだと思います。しかし、ただ配信するだけでは、宗教的な魅力を伝えることは難しいのかもしれません。
というのも、法要にしても法座にしても、宗教的な取り組みというのは、「お寺」という非日常的な空間によって演出されている部分が本当に大きいです。
本堂の厳かな空気感や、お香の芳しい香りなど、「座っているだけでホッとする」ようなお寺の宗教空間が持つパワーや魅力は、配信ではなかなか伝えられません。
似たような話をすると、私は音楽が好きで、ライブやコンサートによく行くのですが、やはり実際にライブへ参加するのと、後でライブ映像を見るのとでは、臨場感がまったく違います。
そのため、ライブ映像は音声が綺麗にマスタリングされたり、カメラアングルが凝っていたり、オーディオコメンタリーが付いていたり、削がれてしまった臨場感を、さまざまな工夫でカバーして視聴者を飽きさせないようにしています。
同じように法要や法話を配信するときにも、削がれてしまう宗教的な魅力を何かしらの工夫でカバーする必要があるのではないでしょうか。
この考えに至ったのは、築地本願寺の職員さんから聞いたある話がヒントになっています。
築地本願寺では、「本堂」で法話を開催するときには、法話を担当する僧侶が少しくらい未熟であっても、ちゃんと話を聞いてくれる人が多いそうです。
一方で、新しくできた「多目的ルーム」では、僧侶の話術や技量によって、ハッキリと明暗が分かれやすいといいます。
その違いはどこにあるのか……とアンケートを見ながら考えたときに、「空間がそのものが持っている力ではないか」という答えに行きついたようです。
確かに「本堂」は、話が良くても悪くても、座っているだけで落ち着けるような空気があります。
しかし、築地本願寺の「多目的ルーム」は、カルチャースクールのような雰囲気で、あまりお寺っぽくはありません。
良くも悪くも、話し手の力に左右されやすいと言われれば、そんな気もしてきます。
長くなるので、次回に続きます。
合掌