今まで見てきたように、「これはこういうものである」という先入観や思い込みを持つと、人はその思い込み通りの人間になろうとすることが科学的に実証されているそうです。
これは対人関係にも当てはめることができます。家庭教師のアルバイトをしていた時に、「人を育てるうえで最も重要なことは、『相手が問題児である』という見方を克服して、そうした視点や思い込みにとらわれないことである」と教わりました。
なぜ、「問題児」といった視点が危険なのでしょうか。
それは子どもを傷つけるだけではなく、問題の改善を妨げてしまうからです。
相手に「問題児」のレッテルを貼った時点で、相手の本質から目を背けることになって問題は良い方向には向かいません。
他にも「クレーマー」とか「モンスターペアレント」といった呼び方をして相手に対処することも同じです。
相手にそうした呼称を用いて厄介な存在であると見なした時点で、問題の解決を困難にしていく心理的プロセスに人はハマっていきます。
相手が「クレーマー」「モンスターペアレント」と思って接すると、相手の言うことなすことを不当なこととして受け取ってしまいます。
警戒心が先行して普通の要求であっても拒否することが起きたり、不信感を向き出しにして防衛的な対応をすることに繋がります。
すると、相手はますます不満や苛立ちを強め、要求のボルテージを高めて悪循環に陥っていく……これらも「相手が問題児である」という先入観の産物です。
この思い込みは自分の判断を必要以上に過酷なものに歪めてしまいます。〈参考『あなたの中の異常心理』〉
私たちは知らず識らずに「言葉通りに物事がある」と考えてしまうようです。
しかし、本当に言葉と言葉によって指し示した物事が対応するのであれば、「火」と発した時点で口が熱くなるはずです。
火という「言葉」と、その言葉が表す「対象」は全くの別物です。このことを心を扱う仏教の学問分野である「唯識(ゆいしき)」では、名義相互客塵性(みょうぎそうごきゃくじんしょう)といいます。
名は「言葉」、義は「対象」、客塵とは「客がその家の人ではないように、塵は本来付着した対象そのものではない」という意味です。
つまり、「言葉」と、その言葉が指し示す「対象」とは、互いにまったく相違するため、言葉には限界があると教えるのが名義相互客塵性です。〈参考『唯識の真理観』〉
私たちは言葉によって世界を創り上げるだけではなく、そこに様々な価値を付加していきます。
「相手に問題がある」と考えた時点で、相手は問題のある人間となっていくのです。
どんな言葉を用いるかで自分の世界が決まるといっても過言ではないでしょう。
合掌