無知の知

去年、史上初の「永世七冠」を達成して話題になった羽生善治棋聖。


大記録を達成してなお、「将棋そのものも本質的にどこまでわかっているのかと言われたら、まだまだ何もわかっていない」と語っていた会見が印象的です。


「分かった」「知っている」「理解ができた」という態度は、物事の本質から遠くにいる人の象徴かも知れません。


日本のユング派心理学の第一人者である河合隼雄氏は、

臨床心理学などということを専門していると、他人の心がすぐわかるのではないか、とよく言われる。私に会うとすぐに心の中のことを見すかされそうで怖い、とまで言う人もある。確かに私は臨床心理学の専門家であるし、人の心ということを相手にして生きてきた人間である。しかし、実のところは、一般の予想とは反対に、私は人の心などわかるはずないと思っているのである。

この点をもっと強調したいときは、一般の人は人の心がすぐわかると思っておられるが、人の心がいかにわからないということを、確信をもって知っているところが、専門家の特徴である、などと言ったりする。〈『こころの処方箋』「人の心などわかるはずがない」〉

と述べられています。


お釈迦さまは『ダンマパダ』という経典に次のような言葉を遺されています。

もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。
愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、「愚者」だと言われる。〈『ブッダの真理のことば・感興のことば』〉

弟子のチューラパンタカに対しても、同じように語っていることから仏教では大切な姿勢です。


中国の高僧である善導大師(ぜんどうだいし)のお言葉に、

また仏の密意弘深なり、教門暁めがたし。三賢・十聖も測りて闚ふところにあらず。いはんやわれ信外の軽毛なり、あへて旨趣を知らんや。
[現代語訳]如来さまの思し召しは弘くて奥深いから、その教えの意味は知り難い。尊い菩薩方でさえ、はかりうかがうところではない。まして私は尊い菩薩方に比べれば、吹けば飛ぶような愚かな凡夫である。どうして、その思し召しをはかり知ることができようか。

とあります。大師は中国の唐の時代の方です。学識が高く、非常に徳の高い高僧として知られます。


「智慧第一の法然房」と呼ばれた浄土宗の開祖である法然聖人(ほうねんしょうにん)も、

念仏を信ぜん人は、たとひ一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらにおなじくして、智者のふるまひをせずして、ただ一向に念仏すべし。
[現代語訳]念仏の教えを信ずる人は、たとえ釈尊一代の教法をよくよく学ぶとも、一文字さえも知らない無学・無知の身になりきって、尼や入道などの無知のともがらと同じ身であるとわきまえ、智者の振る舞いをせず、ただ一向に念仏申すべきです。

とおっしゃっています。

合掌

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2018年01月21日