念仏申さるべし

一 勧修寺村の道徳、明応二年正月一日に御前へまゐりたるに、蓮如上人仰せられ候ふ。道徳はいくつになるぞ。道徳念仏申さるべし。自力の念仏といふは、念仏おほく申して仏にまゐらせ、この申したる功徳にて仏のたすけたまはんずるやうにおもうてとなふるなり。他力といふは、弥陀をたのむ一念のおこるとき、やがて御たすけにあづかるなり。そののち念仏申すは、御たすけありたるありがたさありがたさと思ふこころをよろこびて、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と申すばかりなり。されば他力とは他のちからといふこころなり。この一念、臨終までとほりて往生するなりと仰せ候ふなり。(『蓮如上人御一代記聞書』より)
(一)勧修寺村の道徳が、明応二年の元日、如上人のもとへ新年のご挨拶にうかがったところ、上人は、「道徳は今年でいくつになったのか。道徳よ、念仏申しなさい。念仏といっても自力と他力とがある。自力の念仏というのは、念仏を数多く称えて仏に差しあげ、その称えた功徳によって仏が救ってくださるように思って称えるのである。他力というのは、弥陀におまかせする信心がおこるそのとき、ただちにお救いいただくのであり、その上で申す他力の念仏は、お救いいただいたことを、ありがたいことだ、ありがたいことだと喜んで、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と申すばかりなのである。このようなわけで、他力というのは他の力、如来の本願のはたらきという意味である。この信心は臨終まで続き、浄土に往生するのである」と仰せになりました。


勧修寺村(現在の京都府京都市山科区)に住む道徳という蓮如上人の門弟が、年始の挨拶で上人の元を訪れた際のやりとりです。

年の初めはまず「あけましておめでとうございます」という挨拶からはじめるのが通例です。しかし上人の言葉はまったく違うものでした。

明応2(1493)年は蓮如上人が79歳を迎えた年です。道徳は上人よりも2~3歳年上だったといわれていますから、恐らく80歳を過ぎていたことになります。

その状況から考えると「何歳になったのか」という上人の言葉には恒例の身であり、いつ命が終わってもおかしくないことを道徳に確認する意図があったように思われます。

そして上人は道徳の返事を待つことなく「道徳念仏申さるべし」とおっしゃっています。


間髪をいれないこの言葉からは「明日をも知れない無常の世にあって、お念仏の生活こそが何よりも大切なことである」という蓮如上人の強い思いを読み取ることができます。

【参考文献】
『浄土真宗聖典 註釈版』
『蓮如上人御一代記聞書(現代語版)』
『季刊せいてん no.144』

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2025年01月01日