この身は、いまは、としきはまりて候へば、さだめてさきだちて往生し候はんずれば、浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし。(『親鸞聖人御消息』より)
この身は、今はもう年を重ね、別れのときが近くなっています。きっと私が先に往生することは間違いありませんから、お浄土に先に参って、かならずかならず、あなたのことをお待ちしております。
こちらは親鸞聖人が有阿弥陀仏(ゆうあみだぶつ)という人に宛てたお手紙に見える一節です。
「としきはまりて」とは「年が極まった」、つまり「自分はすっかり年老いてしまった」という意味です。聖人は有阿弥陀仏よりも年配で、自分が先に命を終わるはずだと思っておられたのでしょう。
しかし寿命が尽きるのは年齢順とはいかないのが世の習いです。有阿弥陀仏はどうであったのか記録はありませんが、聖人より若くして亡くなった門弟に「覚念房(かくねんぼう)」がいます。

覚念房の往生を手紙で知った聖人は、次のようにご返事を書かれました。
かくねむばうの御こと、かたがたあはれに存じ候ふ。親鸞はさきだちまゐらせ候はんずらんと、まちまゐらせてこそ候ひつるに、さきだたせたまひ候ふこと、申すばかりなく候ふ。(『親鸞聖人御消息』より)
このお手紙は正元元(1259)年、聖人が87歳のときのものと考えられています。
先だった覚念房のことを偲び、「あはれ」に思われると記しています。「あはれ」は現代語の「あわれだ」ではなく、人物や自然、事物に触れて、しみじみと身に深く染みる趣を現す言葉です。
併せて最後の「申すばかりなく候ふ。」からも、訃報を知った当時の聖人の心情が伝わってきます。

どちらのお手紙にも「お浄土で待っています」ということが書かれていました。
懐かしい念仏者と再び浄土で相見ることができる喜びが吐露されているのであり、「かならずかならずさきだちてまたせたまひ候ふらん。かならずかならずまゐりあふべく候」や「浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候」とあるのも、『仏説阿弥陀経』の「倶会一処」を拠りどころとしてのお言葉でしょう。
私たちには親鸞聖人をはじめとする浄土教の祖師方はもちろんのこと、ともに念仏を喜んだ懐かしい有縁の方々との再会の場が間違いなく用意されているのです。
【参考文献】
『浄土真宗聖典 註釈版』
『親鸞聖人御消息(現代語版)』
『季刊せいてん no.105』