一枚起請文⑦

法然聖人の主唱される念仏の肝要】

こうして「観念の念仏ではない」「学問の上の念仏ではない」とあらかじめ断られた上で、次の第二段では、南無阿弥陀仏の念仏の心が示されます。

ただ往生極楽のためには南無阿弥陀仏と申して、疑なく往生するぞと思ひとりて申すほかには別の子細候はず。
ただ極楽往生のためには、南無阿弥陀仏と申して、疑いなく往生すると思いさだめて念仏申すほかには、これといって特別なことはありません。

それは「ただ極楽往生のためには、南無阿弥陀仏と申して、疑いなく往生すると思いさだめて念仏申す」ことであり、つづめれば「ただ念仏申す」という教えです。


「ただ」の語(副詞)は直後の「往生極楽のためには」に係るのではなく、「往生極楽のためには南無阿弥陀仏と申して、疑なく往生するぞと思ひとりて」を挟んで、その後の「(念仏)申す」に係っていると見るべきでしょう。

この「ただ念仏申す」ということを、法然聖人は「本願の念仏には、ひとりだちをせさせて助(すけ)をさヽぬ也」(「諸人伝説の詞」『真聖全4』p.682)と表されています。如来の願意にしたがって念仏申すこと以外に、こちら側で加えねばならぬ(助さす)ものは何一つないと言うのです。(念仏申す他に加えねばならぬものはない)

その意味ではさきほど見た学問の上での念仏は、我々の知恵でもって往生のための不足分を補おうとする念仏であると言えましょう。
それは「ただ念仏申して浄土へ参れ」という如来の仰せを疑っていることに他ならないのです。


また、法然聖人の「ただ念仏申す」とのお言葉には、念仏の回数を限定しないという本願の「乃至」の心をも含意されていると言うべきでしょう。本願には「十念」と「十声の称名」が出されていますが、「十念」の語の前にあるのが「乃至」です。


「工事の完成には3年 乃至 5年かかります」などと言うように、「乃至」の語は数量の範囲を述べて、その中間を略する場合に使われます。
法然聖人『選択集』「本願章」乃下合釈(『七祖』p.1213)のなかで、この「乃至」の語に注意されて「上は一生涯の念仏から、下は十声一声の念仏に至るまで、念仏申す者をもれなく往生させる」というのが本願のこころであると明らかにされました。


ですから「私はまだ往生するにはお念仏が足りない」とか「私はたくさんお念仏しているから大丈夫」というように、称えた回数をあれこれと計らい、多くの念仏を重ねることで往生できると考えるのは「乃至」と誓われた本願のお心、そして法然聖人の「ただ念仏申す」というご教示に相違するものと言わねばなりません。(反対に「私は一声称えたから後はもう称える必要がない」というのも、やはり「ただ念仏申す」とは違います)


このように見てきますと、法然聖人の仰る「ただ念仏申す」とは「ともかく称えればなんでもよい」という無信但称の念仏でもなく、また「念仏の称え方や回数を問題とする念仏」でもありません。
それは「上は一生涯の念仏から、下は十声一声の念仏に至るまで、念仏申す者をもれなく往生させる」という仏願への信順にもとづく他力の念仏であることがわかります。

「ただ」の一語には、こうした自力のはからいを離れた仏願への信順のありさまが表されていると言えるでしょう。またその疑いなき信相が「南無阿弥陀仏と申して、疑なく往生するぞと思ひとりて」とも示されているのです。

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2025年05月13日