【『一枚起請文』の題号と製作の意図】

『一枚起請文』の題号は、後人の通称ではなく、法然聖人がご自身でお付けになられたでものです。そこには大切な意味があるといわねばなりません。
「一枚」とは文字通り一枚の紙のことで、「起請文」とは「自分の行為、言説に関して、うそ、いつわりのないことを神仏に誓い、また、相手に表明する文書」のことです。
ですから『一枚起請文』には、単に教えの肝要を示された文意ということではなく、法然聖人のお誓いの言葉という意味が込められています。『一枚起請文』は「御誓言の書」(『真聖全4』p.565)という題号で呼ばれることもありますが、その意味するところは同じです。
では、何を誓われているかといえば「ただ往生極楽のためには南無阿弥陀仏と申して、疑なく往生するぞと思ひとりて申すほかには別の子細候はず」といわれた、そのこと以外には何も隠した教えなどはないということを釈迦・弥陀二尊に誓われているのです。
それが「このほかにおくふかきことを存ぜば、二尊のあはれみにはづれ、本願にもれ候ふべし」というお言葉です。

法然聖人の説かれた教えは、善人も悪人もあらゆる者が念仏一つで平等に往生していくという、それまでの仏教の常識にはなかった革新的な教えでした。
それゆえ、法然聖人の真意を誤解して「法然聖人はただ念仏一つと仰っているが、それは仏教の理解の足らない愚鈍の者のための方便的な教えであり、本当に深い教えは秘しておられるのだ」ということを言うひとも少なからずあったようです。
すでに法然聖人の在世中からそのようでしたから、法然聖人はご自身の没後のことを憂慮され
源空が所存、このほかにまつたく別義を存ぜず。滅後の邪義をふせがんがために、所存を記しをはりぬ。
私が亡くなった後、邪な説をなすものを防ぐために、ここに所存を記したのです。
と結ばれているのです。
ここに、源智上人からの要請という外的な要因だけには留まらない、『一枚起請文』の製作の意図が窺われます。