仏教とはお釈迦さまをはじめとした仏さまの教えです。
阿弥陀さまはお釈迦さまの説いた教えにあらわれる仏さまです。
お釈迦さまはこの娑婆世界において阿弥陀さまの法を説く仏さまであり、阿弥陀さまはお釈迦さまによってその法(はたらき)が明らかにされる仏という関係にあります。
そのため、一般的にお釈迦さまと阿弥陀さまについて論じるときは「釈迦→弥陀」の順番で、最初にお釈迦さまをあげ、その後に阿弥陀さまを出すことが多いです。
もしくはお釈迦さまも阿弥陀さまも「諸仏の中の一仏」として、並列的に説かれます。
善導大師の『観経疏』「玄義文」にも、
仰ぎておもんみれば、釈迦はこの方より発遣し、弥陀はすなはちかの国より来迎したまふ。かしこに喚ばひここに遣はす、あに去かざるべけんや。
とあります。
お釈迦さまはこの娑婆世界から「阿弥陀さまの浄土へ往くように」とお勧めくださり(発遣)、阿弥陀さまは浄土から「来たれ」と迎えてくださっている(招喚)……と示しています。
つまり、お釈迦さまと阿弥陀さまの二尊の関係は「お釈迦さまの発遣に対応する阿弥陀さまの招喚」という関係で、順番も「釈迦→弥陀」になっています。
ところが親鸞聖人の場合、ほとんどが「弥陀→釈迦」の順番になっています。
たとえば「正信念仏偈」の前半、つまり阿弥陀さまの本願とお釈迦さまの経説について述べる「依経段」は最初に「阿弥陀さまが本願を建立されるに到った事情と本願の成就されたこと」が説かれ、そのあとに
如来、世に興出したまふゆゑは、ただ弥陀の本願海を説かんとなり。
とあって、「お釈迦さまは阿弥陀さまの完成くださった本願を説くためにこの世界に出現したのである」と説かれています。
前述した「玄義分」にあるような「お釈迦さまの発遣に対応する阿弥陀さまの招喚」という関係とは異なります。
まず阿弥陀さまがいらっしゃって、その阿弥陀さまのお救いをお釈迦さまがお説きくださる……という「弥陀→釈迦」の順番になっているのです。
『教行信証』「教巻」で『仏説無量寿経』の大意を述べる一段も、まず
この経の大意は、弥陀、誓を超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れんで選んで功徳の宝を施することを致す。
と、阿弥陀如来の発願とその成就を示しています。これを承けて、
釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲すなり。
と、釈尊出世の本懐……つまり「お釈迦さまは阿弥陀さまの本願を説くためにこの世界にお出ましくださった」と示しています。
「正信念仏偈」と同様に「弥陀→釈迦」と、阿弥陀さまがいらっしゃって、その法をお釈迦さまが説くという順番です。
なぜ、親鸞聖人は「弥陀→釈迦」という順番に説いておられるのでしょうか。
『歎異抄』第二章には、
弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。
とあります。
聖人は「阿弥陀さまの本願が真実であるから、それを説き示してくださったお釈迦さまの経説が偽りであるはずがない」と述べられています。
常識的には「お釈迦さまがお説きくださったから、阿弥陀さまの本願も真実である」ということになるでしょう。ですが、聖人の考え方は逆です。
聖人においては何よりもまず阿弥陀さまの本願こそが真実であり、阿弥陀さまの本願を説いてこそお釈迦さまご出世の意味がありました。
だからこそ、聖人は「弥陀→釈迦」という順番に述べられています。
聖人は前述の「正信念仏偈」の文を釈して『尊号真像銘文』に
「如来所以興出世」といふは、諸仏の世に出でたまふゆゑはと申すみのりなり。「唯説弥陀本願海」と申すは、諸仏の世に出でたまふ本懐は、ひとへに弥陀の願海一乗のみのりを説かんとなり。
と示され、お釈迦さま以外の諸仏の出世本懐も阿弥陀さまの本願を説くことにあったとみておられます。
『浄土和讃』には次のような和讃があります。
久遠実成阿弥陀仏
五濁の凡愚をあはれみて
釈迦牟尼仏としめしてぞ
迦耶城には応現する
久遠の昔に仏となられた阿弥陀さまは、五濁の愚かな凡夫をあわれみたまい、阿弥陀さまの本願を説くためにお釈迦さまとしてこの世界に現れ、迦耶城にその姿をあらわされたのである……つまり、お釈迦さまはこの娑婆世界において阿弥陀さまの法を説く教主であるとともに、阿弥陀さまがこの娑婆世界に姿を現した仏さまでもあったのです。
こうして親鸞聖人の弥陀・釈迦二尊観をうかがうとき、私たちは阿弥陀さま一仏に帰依し、お釈迦さまが出世の本懐とされた阿弥陀さまの本願をいただくことこそが、お釈迦さまの本意に叶うことであり、お釈迦さまを敬うことになるのです。