『御文章』を拝読していると、いろいろと気になる表現が出てきます。
蓮如上人は「宿善 / 無宿善の機」という言葉を『御文章』で何度か用いています。
「宿善 / 無宿善の機」とは、簡単に説明すると「仏法を聞く機縁が熟しているひと / そうでない人」という意味です。
ところが、仏さまならともかく、人間である蓮如上人が「あなたは仏法を聞く機縁が熟している」「あなたは熟してない」と判断することが可能なのでしょうか。
私の予想では恐らく蓮如上人の元に仏法を聞きにくる人の中には「この人にはどれだけ説法しても伝わらないな。きっと無宿善の機なのだろう」と、上人が思わず諦めたくなるような人たちがいたのでしょう。
仏法に限らず、日常生活でも人に何かを伝えるときに「この人は話が通じない、何を言っても無駄だ」と感じる時があります。
そのとき「この人はそもそも縁がととのっていないから仕方がないのだ」と潔く諦めて受け入れてしまうことも寛容な態度といえるのではないでしょうか。
なぜなら、縁がととのっていないということは、決して本人の責任ではありません。ご縁がないのだから、こればかりは仕方がないのです。自分も相手も悪くありません。
そう思うと「なんでこいつは分からないんだ」と相手を責める気持ちはもちろん、「伝えられない自分はダメな人間だ」と自分を責めることも必要ないです。
無責任と受け取る方があるかもしれませんが、相手を無理やり変えようと責めるよりは、よっぽど温かい世界ではないかと思います。
「宿善 / 無宿善の機」の言葉は、蓮如上人なりの相手への優しさであり、自己防衛なのかもしれません。
また、そうして精神衛生を整えていくことで伝道活動で大きく躍進した……のではないでしょうか。