自覚・覚他・覚行窮満


以前、浄土真宗のお寺にある阿弥陀如来の仏像がお立ち姿であることに触れました。


しかし、「鎌倉の大仏」として有名な神奈川県鎌倉市長谷にある高徳院(浄土宗)の阿弥陀如来像をはじめとして、世の中には座った姿の阿弥陀如来の仏像も多くあります。

このことについて、「座っている仏像は“ここまで来い”の仏さまで、立っている仏像は“そこまで行く”の仏さま」という説明がされることがありますが、「同じ阿弥陀如来なのにそんな違いがあっていいのだろうか」とよく疑問に思っていました。


本願寺出版社がら発刊されている『やわらか法話』に満井秀城和上による分かりやすい解説が載っていたので、紹介します。

「ねえ。うちの阿弥陀さまは立っているのに、どうして平等院の阿弥陀さまは座っているの」

子どもの質問に対して、お父さんが答えます。

「そうだなあ。立っておられる仏さまは、そこまで行くよという仏さまで、座っておられる仏さまは、ここまでおいでという仏さまじゃないかな」

すると、おばあちゃんが、

「おまえの言うことは、いつも危なっかしいねえ。お立ちの阿弥陀さまは、確かに、そこまで行くよとおっしゃってくださっているんだろうけど、同じ阿弥陀さまなのに、ある時は、そこまで行くよと言われ、ある時はここまでおいでと言われたのでは、同じ仏さまが違う教えを説いていることになるじゃないか。それじゃおかしくないかい」

(中略)

阿弥陀さまのお姿には、立っておられる場合もあり、座っておられる場合もあります。それぞれ、阿弥陀さまのお徳の、どの部分を表そうとされているかで、お姿が違っているのです。
座っておられるお姿は、自内証(じないしょう)といって、阿弥陀さまのおさとりそのものを表しています。「ないしょ話」という言葉の語源とされていますが、仏さまご自身のさとりの内容なのです。智慧の眼によって物事をあきらかに見つめ、平安で穏やかな境地を示しているのが、座っているお姿です。
その一方、お立ちのお姿は、慈悲の活動相を表しています。自内証から、衆生救済へと立ち上がられるお姿です。

もちろん智慧と慈悲とは切り離せるものではありません。智慧は必ず慈悲に展開されるのであり、慈悲は智慧に基づいてこそなされるものです。

デパートに買い物に行った時、ちょっと目を離していたら、子どもが階段から落ちそうになっていました。その時、他人から見たら「危ないなあ」と思うくらいでしょう。しかし、母親がそれを目にしたとたん、「危ないっ」と叫ぶと同時に、その子どものもとに飛び込んでいきます。

「子どもが落ちそうだなあ」と思っているだけでは、知識や認識のレベルであって、智慧ではありません。その子のもとに飛びこんでいく慈悲に展開して初めて智慧といえるのです。

阿弥陀さまのお立ち姿は、まさしく私たち凡夫のもとに飛びこんでくださる姿なのです。


仏さまとは真理をさとったもの、もしくは真理のはたらきを人格表現したものをいいます。

このことをお経には、

仏とは覚に名づく。既に自ら覚悟し、復た能く他を覚せしむ
〈『大般涅槃経巻(だいはつねはんぎょう)』〉

と説かれ、この説示を承けて中国の浄影寺(じょうようじ)の慧遠(えおん)は、

既に能く自覚し、復た能く他を覚して覚行窮満(かくぎょうぐうまん)す。故に名づけて仏と為す
〈『大乗義章(だいじょうぎしょう)』〉

といい、中国の高僧である善導大師(ぜんどうだいし)

自覚・覚他・覚行窮満、これを名づけて仏となす
〈『観経四帖疏(かんぎょうしじょうしょ)』「玄義分(げんぎぶん)」〉

とおっしゃいます。真理を自らさとる(自覚)だけでなく、他をさとらしめる(覚他)はたらきまでも、すべて極まって満足しているのが仏さまということです。

自覚は智慧、覚他は慈悲であるともいわれます。前述したとおり、本来はひとつのものであって、紙の裏表と同じように切り離せるものではありません。
しかし、仏像のすがたによって、どちらの面が強調されているのかが伺えるのではないでしょうか。

浄土真宗の教えはどちらかといえば、阿弥陀如来の他(衆生)を覚する(救う)という慈悲の心を聞くことが中心にあるため、立像をご本尊に迎えるのです。


ちなみに絵に描かれた仏さま(絵像)では分かりませんが、浄土真宗のお寺にある阿弥陀如来の木像を横から見ると前傾姿勢になっていることが多いようです。足下もよく見ると、踵が浮いていたり、片足を前に踏み出そうとしたり、今にも動き出しそうなデザインになっているものがあります。

これは直立不動ではなく、今まさに現在進行形で私たちのところに駆け付けて「南無阿弥陀仏」とはたらいているという阿弥陀如来の心が表されている……とよく説明されますが、実際には来迎思想(らいごうしそう)の名残であろうといわれます。


来迎思想とは、平安時代に流行した極楽浄土へ往生を願う人の臨終に、紫雲に乗った阿弥陀如来が迎えにくるというものです。
この阿弥陀如来の姿が「阿弥陀二十五菩薩来迎図(知恩院所蔵)」という絵画に、迅速な来迎の躍動感を表す飛雲の描写として描かれていることから「早来迎(はやらいこう)」とも呼ばれ、この場面を仏像で表現したために前傾姿勢になったのだろうと考えられています。

この傾き具合によって、当時の来迎思想への関心が分かるため、その仏像がいつ作られたかを知るための手がかりにもなるそうです。


これも余談ですが、儀礼専門学校時代の先生に仏像の前傾姿勢の理由を聞いたら、「お参りするときに阿弥陀さまが見やすいようにするため」と返ってきました。


本来はそうした理由から前傾姿勢に作られているようですが、受け止め方は人それぞれあっていいように思うので、「前傾姿勢は阿弥陀如来が私の元に飛び込んでいることを表している」といっても別に構わないと個人的には感じます。以上、蛇足でした。

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2017年06月25日