『阿弥陀経』を読む11

★序文ー証信序「六事成就」⑥〈衆〉


先生|16人の「かくのごときらのもろもろの大弟子(大阿羅漢) 」とならんで一緒に説法を聞いていたのが次の菩薩たちだね。

阿弥|ここでは

【文殊師利法王子(もんじゅしりほうおうじ)
○【阿逸多菩薩(あいったぼさつ)
○【乾陀訶提菩薩(けんだかだいぼさつ)
○【常精進菩薩(じょうしょうじんぼさつ)

の4名が挙げられていますね。

先生|菩薩は、自分自身のさとりを求めるだけではなくて、他の人びとも救済しようとする修行者のことだよ。


阿弥|最初の菩薩さまはどこかの国の王子様だったんですか?


先生|【文殊師利法王子】は、サンスクリット語のマンジュシュリー(mañjuśrī)の音写語で、一般的には「文殊菩薩」の呼び名が有名だね。
   【法王子】とあるのは、文殊菩薩が菩薩たちの中心であり、仏さまの後継者にたりうるほどの大菩薩であることを表わしているよ。

阿弥|菩薩さまたちのボスなんですね。

先生|「三人寄れば文殊の知恵」ってことわざ知ってる?


阿弥|普通の人でも3人が集まれば、良いアイデアが出てくる……で合ってます?

先生|そうそう。文殊菩薩は智慧をつかさどる菩薩で、そこから生まれたことわざなんだよ。

阿弥|仏教ってことわざにもなっているんですね!

先生|続いて──

○阿逸多菩薩・・・弥勒菩薩のこと。※別人であるとする説もある
○乾陀訶提菩薩・・・阿閦仏(あしゅくぶつ)の滅後に成仏するとされている。
○常精進菩薩・・・『維摩経(ゆいまきょう)』『法華経(ほっけきょう)』に聴衆として列名されている。

──さらに【もろもろの大菩薩〈諸大菩薩〉】だけでなく、

及釋提桓因等(ぎゅうしゃくだいかんいんとう)・無量諸天(むりょうしょてん)・大衆倶(だいしゅく)
および釈提桓因等の無量の諸天大衆と倶なりき

と無数の諸天も聴衆者として集まっていたと説かれているね。


阿弥|諸天ってなんですか?

先生|仏法を護る神々で、代表として釈提桓因(しゃくだいかんいん)の名前が挙げられてるよ。

阿弥|有名な神さまなんですか?

〈photo by 松竹株式会社〉

先生|葛飾柴又にある帝釈天というお寺が『男はつらいよ』という作品の舞台になっているんだけど、実はこの帝釈天=釈提桓因なんだね。


阿弥|寅さんの映画ですね。お祖父ちゃんと見たことがあります。
   でもどうして日本の神さまがお経を聞いていたんでしょうか?

先生|もともとインド神話で人気のあった神のひとりインドラ(Indra|因陀羅)が、仏教に取り入れられて帝釈天となったんだよ。

阿弥|あ、インド出身の神さまなんですね。

先生|お釈迦さまの弟子や菩薩だけでなく、たくさんの神々までもが『阿弥陀経』の説法を聞いて喜ばれていたということだね。


阿弥|でも、仏さまと神さまって同じようなものじゃないですか?

先生|日本では混同してしまっている人が多いけど、仏教では明確に区別しているよ。

阿弥|えっ、そうなんですか!


先生|「私たちは6つの迷いの世界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)を生まれ変わり死に変わりしながらグルグルと巡っている」と仏教では考えるんだよ(六道輪廻|ろくどうりんね)

阿弥|今の私は人の世界にいて、神さまや仏さまの世界が別にあるということでしょうか?

先生|神の世界は「天」の世界だから、そこに生を受けた者が神となるんだね。


阿弥|じゃあ私も「天」の世界に行けば、神さまになれるんですね。

先生|ただ、「天」に生まれるのは難しいだけでなく、仏教では神の世界である「天」も迷いの世界には変わりないんだよ。

阿弥|神や天国も迷いなんですか?

先生|神は超越的な力や長い寿命を持っているけど、煩悩に苦しんで迷いの世界を輪廻する存在という点で私たちと同じなんだ。


阿弥|じゃあ仏さまは6つの世界のどこにおられるんですか?

先生|六道輪廻から解脱(げだつ)をしてもう2度と迷いの生を繰り返さない仏さまは、煩悩の火が消えた涅槃(ねはん)という静かな悟りの世界にいらっしゃるよ。
   それだけではなく、迷いの世界に出向いて生きとし生けるものをさとりへと導いていくのが仏さまなんだ。

阿弥|じゃあ仏さまの方が神さまよりも上なんですね!

先生|これはキリスト教の神(God)ではなく、あくまでも仏教の神についての話だけどね。

阿弥|神さまたちも駆けつけるほどに、お釈迦さまの説法は凄かったんですね~。

先生|「『阿弥陀経』に説かれている教えを大切にする人たちのことを、無数の諸天たちは夜も昼もつねに護ってくださる」というほどだからね。


阿弥|ところで、どうして日本では「神さま仏さま」とか「神も仏もいない」とか、両者を同じような扱いをするのでしょうか。

先生|そもそも六世紀に百済(くだら)から仏教が伝来したときに、日本人は仏さまを「よその国からきた神様(蕃神|あだしのくにかみ)」「客人神(まれびとかみ)」と呼んでいたんだ。

阿弥|当時の人たちは仏さまを知らなかったから、自分たちの持っている考え方で解釈したんですね。

先生|古代から日本にあった「神々への祈祷を中心とした土着信仰」をベースにして仏教を受け容れたことが、現代まで続く神仏混同の原因じゃないかな。


阿弥|じゃあ仏さまにお願い事やお祈りをするのは間違いなんでしょうか?

先生|間違いとは言わないけど……私たちは、どこまでいっても煩悩から離れられずに自分の都合のいいような祈りや願いしかできないからね。
   例えば「無病息災」を神や仏に祈願しても、人は病気にもなるし、歳をとって必ず死んでいかなければならない。
   老・病・死のような私たちの人生において決して避けることができない苦しみを、お釈迦さまは決して誤魔化されることはなかったんだよ。

阿弥|その苦しみを超えていくのが仏教の教えなんですね。

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2018年11月11日