合掌2

お寺の本堂へお参りしたときや、お墓の前に立ったときに神社と勘違いして「パンパン」と派手な柏手を打つ人をたまに見ますが、普通ほとんどの人は胸の前で静かに手を合わせます。


この姿勢ことを「合掌(がっしょう)」といいます。元々はインドで古くから行われてきた相手に対する敬いを表す作法のひとつです。
今回はこの「手を合わせる」という行為について考えてみます。


合掌の起源についてはよく分かりませんが、仏典での根拠となりそうなものとして『根本説一切有部律(こんぽんせついっさいうぶりつ)』にある「合十指恭敬」が挙げられます。
義浄三蔵の『根本薩婆多部律摂(こんぽんさっばたぶりつしょう)』には「十の指を合わせるというのは、恭敬(くぎょう|つつしんでうやまうこと)を表します」と解説されています。


玄奘三蔵(げんじょうさんぞう|西遊記の三蔵法師のモデルになった翻訳僧侶)が書いた『大唐西域記(だいとうさいいきき)』という見聞録の記述によると、当時のインドでは相手に尊敬を表す作法が9個あったようです。

①発言慰問(ほつごんいもん)挨拶をする
②俯首示敬(ふしゅじきょう)頭を下げる
③挙手高揖(こしゅこうゆう)手をあげて揖(会釈)する
④合掌平拱(がっしょうへいく)合掌する
⑤屈膝(くっしつ)片膝を地につく
⑥長跪(じょうき)両膝を地につける
⑦手膝踞地(しゅしつこじ)手と膝を地につける
⑧五輪倶屈(ごりんくくつ)両手と両膝と頭をかがめる
⑨五体投地(ごたいとうち)両手と両膝と頭を大地に投げ出す

こうしてみると、段々と敬いのランクが上がっているように思います。


④「合掌」の延長線に身体を投げ出す「五体投地」があるということは、両手を合わせる行為も手を使えなくすることで相手に対して敵意がないこと、引いては身を委ねて敬いを表す作法であるといえるのではないでしょうか。
同じような考え方で、合掌は無抵抗を表し、平和を象徴する姿勢だという人もいます。


中国天台宗の開祖とされる天台大師の智顗(ちぎ)は『観音経義疏(かんのんきょうぎしょ)』上巻で、

合掌とは此方には拱手を以て恭と為し、外国には合掌を以て敬となす。手は本と二辺なり、今合して一となすは敢て散誕せず専至一心なるを表す。一心相当るが故に此れを以て敬を表す

と説明しています。また、同じく中国の僧侶である道世(どうせい)も『法苑珠林(ほうおんじゅりん)』に、

故律に云く、当に一心ならしめ十指爪掌を合わせて釋師子を供養すべしと、或は云ふ叉手して仏に白すとは皆是れ容(かたち)を歛(おさ)め恭を呈し心を制して馳散せしめざるなり。然るに心使防ぎ難し故に掌を合せて一心ならしむるなり、今仏を礼する者多く指合して掌合せず、或いは掌合して指開く、良に心慢にして情散ずるに由るなり

と記しています。


要するに、仏教における合掌は心を整えるための作法でもあるようです。バラバラの10本の指をひとつにまとめることは、散り乱れた心をひとつにすることと関係があるのかも知れません。


他にもインドでは右手を清浄、左手を不浄とみなす習俗があります。
その両手を合わせる行為は、人間の中にある神聖な面と不浄な面がひとつになることを表し、自分自身の真実のすがたを相手に見せることで、相手への信頼や尊敬を表すとか。


このことを受けて密教では右手を仏さまの世界、左手を私たちの世界と見なし、さらに5本の指をそれぞれ地・水・火・風・空の万物を構成する要素「五大」に配当します。
その手を合わせることは、仏さまと私が一体となることを象徴し、成仏のすがたを示すという解釈があります。


さらに密教では右手を大日如来の智慧である金剛界(こんごうかい)と考え、左手を母親の胎内で赤ちゃんが育つように、大日如来の慈悲によって人間が育てられることを示す胎蔵界(たいぞうかい)を表すと考えるそうです。
悟る側(主体)の右手と、悟られる側(客体)の左手が合わさることで、理智不二という真実の悟りを示します。〈参考『岩波仏教辞典』〉

どうやら密教では合掌にこだわりがあるようで、12種類も区別があるそうです。

①堅実心合掌(けんじつしんがっしょう)
手を合わせ、手のひらの間に空間をつくらない。指先は少し離れる。

②虚心合掌(こしんがっしょう)
①の状態から少し手のひらの間に空間をつくる。指先が先までよく着く。

③未開蓮合掌(みかいれんがっしょう)
②の状態から、さらにふくらます。如来開蓮合掌(にょらいかいれんがっしょう)・未敷蓮華合掌(みふれんげがっしょう)とも言う。

④初割蓮合掌(しょかつれんがっしょう)
③の状態から、親指と小指以外を少し離す。①~④で蓮華がしだいに膨らみを増すような形となる。

⑤顕露合掌(けんろがっしょう)
小指どうしを着けるようにして、両手を仰向けにする。

⑥持水合掌(じすいがっしょう)
⑤の状態から親指以外を着けて水をすくうような形にする。

⑦帰命合掌(きみょうがっしょう)
金剛合掌(こんごうがっしょう)とも言いう。右手の指を上にして、交互に指を組み合わせ合掌する。

⑧ 反叉合掌(ほんしゃがっしょう)
背中合わせで、指を互いに組む。右手の指が上になる。

⑨反背互相著合掌(ほんはいごそうちゃくがっしょう)
右手を仰向けにして、伏せた左手の上に置く。

⑩横柱指合掌(おうしゅしがっしょう)
⑤の形から中指のみ右を上として重ねる。

⑪覆手向下合掌(ふしゅこうげがっしょう)
⑩の裏返しのような形。中指を右が上で重ねる。

⑫覆手合掌(ふしゅがっしょう)
親指だけ着けて手を並べる。

〈参考「飛不動」やさしい仏教入門・十二合掌〉


浄土真宗における合掌の種類はひとつだけです。②の虚心合掌が最も近いです。
これは仏さまに相対するとき、自分の心を虚しくする(虚心)ことで、仏さまと私がひとつであると味わう姿勢なのでしょう。


浄土真宗本願寺派では、合掌の際は指の形から手の角度まで細かく決まりがあります。


両手を胸の前に合わせて、指をそろえて約45度上方にのばし、念珠をかけて親指で軽くおさえ、そのまま肩・ひじをはらず自然に背筋を伸ばし、ご本尊を仰ぎ「南無阿弥陀仏(なんまんだぶ)」とお念仏を称(とな)える──詳しくは動画をご覧ください。


本願寺の第8代宗主 蓮如上人や第9代 実如上人の時代の儀礼作法について書かれた『本願寺作法之次第』には次のようにあります。

仏を拝むも、手をあまり上げたるも悪し、又あまり下がりたあるも悪也。袈裟の結び目の上に手を置きたるよし。
拝むに早く果てたるは、粗相に敬なくて見苦しき也。心に別なる心もちは有べからざれ共、しとしとと拝み、静かに静かに拝みたるは良し。実如上人の仰せなり〈『浄土真宗聖典全書4』p.971〉

「仏さまに手を合わせるときは、手は上げすぎず、下げすぎず、袈裟の結び目──胸の中央に手を置きましょう」「作法を早く雑にすると見苦しいので、心をひとつにして“しとしと”と心静かにお参りしましょう」と合掌の心得を指南くださっています。


「丁寧にすることは大切だと思うけど、角度までそんな細かく決めなくても」……と思いましたが、実際のところこの作法通りにやった方が無理なくリラックスして手を合わせることができるので、意外と理にかなっているのかも知れません。


色々と調べてみましたが、合掌の起源や意味というのはハッキリとした統一見解がないようです。
浄土真宗的にも「手が合わさるということは、手を合わせしめるはたらきやお育てがある」といった味わいや、念珠と併せて解説をする場合など、お坊さんによってそれぞれの受け止め方があるようです。


誰が言ったのかは知りませんが、「人間の最も美しいすがたが、合掌のすがたである」と聞きます。
仏さまへ正対するときは、できるだけ美しい姿勢をもってお参りをするというのも尊い報謝のすがたではないでしょうか。

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2017年08月20日