浄土真宗は「浄土」とつくので、“死んでからの浄土で救われる教え”と考える人もいるかも知れません。
しかし、私を浄土へと連れ帰る阿弥陀如来という仏さまは、「今」「ここ」に“南無阿弥陀仏”の言葉となって届いています。
この真実をお聞かせに与(あずか)るその時に、苦しみの人生のなかに大きな安心が宿るのではないでしょうか。
伝灯奉告法要に参拝したときに、「安心して苦しんでいける」ということについて、講師の先生が次のような話をしていました。
遊園地に遊びに行ったとある家族の出来事です。ハッと気付くと、幼い娘が迷子になっていました。
お父さんとお母さんを探そうと娘は右往左往しますが、まったく見つけることができません。
「お父さんとお母さんにもう会えない。もうお家に帰れない」
そう思うと、涙が止まらなくなって大声で泣き出してしまいます。
その後、お母さんが見つけてくれて、無事に再会することができました。
「お父さんやお母さんを捜そうとしてウロウロしたらダメよ。迷子になったら近くのお店でお土産を見て待ってなさい。必ずお父さんとお母さんがあなたを見つけ出してお家に連れて帰ってあげるから」
しかし、一日楽しく過ごして家路に着きかけたころ、またもや娘が迷子になってしまいました。
お父さんとお母さんがやっとの思いで見つけ出したとき、娘の養子に驚きます。
娘は大泣きもせず、ウロウロもしていません。それどころか、目を輝かせてお土産物を眺めていました。
「あなた、何してるの?」
「迷子になったから、ここで待っていたの」
最初に迷子になったときは、寂しくて悲しくて何もできなかった娘でした。
ところが、再び迷子になったときは、迷子になったことに気付き、お土産を楽しそうに見ていたのです。
浄土真宗はいのち終えて浄土へ参ることを説きます。決してこの世界が浄土になるとは説きません。私たちが住んでいるのは、どこまでいっても苦しみや悲しみで溢れた迷いの世界です。
しかし、「迷いの世界に生きていることすら気づかない迷子のあなたを、決して見捨てることなく浄土へ連れ帰る」という仏さまの仰せを聞くときに、迷いのなかにありながらも大きな安心が宿るのではないでしょうか。