★序文ー証信序「六事成就」①〈信・聞〉
阿弥|いよいよお経の内容に入るんですね。
先生|世の中に経典はたくさんあるけれど、基本的にどれも内容は
①序分(じゅぶん)
②正宗分(しょうしゅうぶん)
③流通分(るづうぶん)
の3段に分かれているよ。
阿弥|前に小論文の授業で「序論」「本論」「結論」の形式を習いましたけど、お経も同じなんですね。
先生|お経では「序分」をさらに
○証信序(しょうしんじょ)
○発起序(ほっきじょ)
と分けるんだ。
阿弥|細かく分けるんですね。
先生|例えば、昔話って「むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがいました」と出だし部分がほとんど共通しているよね。
お経の出だしにも必ず「証信序」があって、内容が共通しているから「通序(つうじょ)」ともいわれるよ。
阿弥|すると「おばあさんが川へ洗濯に」とか「おじいさんが竹を切りに」とか、昔話によって違う出だしのきっかけが「発起序」ということですか。
先生|そうだね。「発起序」は、それぞれの説法が説かれた固有のいきさつが書かれているんだ。
「阿難の問いによって」とか「韋提希の問いによって」とか、経典によって説くきっかけが異なるので、「通序」に対して「別序(べつじょ)」と呼ばれているね。
阿弥|お経にはお経用の体裁やテンプレート(定型書式)があるんですね。
先生|特に「証信序」は、「この経典は信じるに足るものですよ」と証明している部分だから、なくてはならないんだよ。
阿弥|どうやって証明するんですか?
先生|「六事成就(ろくじじょうじゅ)」といって、
①信(しん)成就・・・どのように
②聞(もん)成就・・・どのように
③時(じ)成就・・・いつ
④主(しゅ)成就・・・誰が
⑤処(しょ)成就・・・どこで
⑥衆(しゅ)成就・・・誰に対して
この6つが明らかにされて整うことで、初めて経典として成立するんだよ。
阿弥|お釈迦さまの言葉がなんでもお経になるのではなくて、そうした裏付けがハッキリしていないとダメなんですね。
先生|私たちの実生活の場合は「いつ」「誰が」「どこで」「誰に対して」が書いてあれば十分なんだけど、経典はそうじゃないんだ。
阿弥|確かに町で見かける講演会のポスターにも「日時」「会場」「講師」「対象者」は必ず記載されていますね。
先生|仏教では、その4つに加えて「信成就」「聞成就」が揃わなければ経典とは認められないんだ。
阿弥|その「信成就」と「聞成就」って、なんですか?
先生|最初の部分の【如是(にょぜ)】が「信成就」、【我聞(がもん)】が「聞成就」だよ。
阿弥|日本語にすると、どんな意味になるんですか?
先生|「かくのごとく、われ聞きたてまつりき」──つまり、「このように私は聞きました」という意味になるよ。
阿弥|「このように」とはどのようにですか?
先生|「そのまま」「ありのまま」ということだね。
阿弥|それって普通の話の聞き方とは違うんですか?
先生|人間は相手の話を聞くときに「本当はこうじゃないかな」「私はこう思うけどな」と自分の私見を入れて都合のいいように聞いてしまいがちだけど、「そのまま」「ありのまま」の聞き方は「自分の計らいを加えないで聞く」ということだよ。
阿弥|確かに親の言うことなんかは素直に聞けないときがありますけど……。
先生|お釈迦さまの言葉は頭から素直に聞く態度がないと、経典として成立しないんだ。
阿弥|でも、いったい誰がお釈迦さまからありのままに聞いたんですか?
先生|【我聞】の我は、阿難尊者(あなんそんじゃ)のことだよ。
阿弥|アナンソンジャ? 誰ですか?
先生|お釈迦さまの従兄弟であり、ずっと付き従って説法を聞き続けた弟子のひとりだよ。
「多聞第一(たもんだいいち)」と呼ばれて、どの弟子よりもお釈迦さまの説法を聞いていた弟子だから、経典の最初に出てくる「我」はいつでも阿難尊者を示しているんだ。
阿弥|あれ? じゃあお経って、お釈迦さまの言葉を阿難さんが聞いたとおりに語っているんですか?
先生|そういうことになるね。でも【如是】とあるように、ここから先は阿難尊者の私見が微塵も入っていない、お釈迦さまのご説法のままの言葉なんだよ。
もしも【如是】ではなく、阿難尊者の私見が少しでも混ざってしまったら、それは経典とは呼べなくなってしまうからね。
阿弥|阿難さんをすり抜けて、お釈迦さまの言葉をそのまま伝えているのがお経なんですね。
先生|だから私たちも阿難尊者のように、一切の異を挟むことなくお経を拝読することが重要なんだよ。
中国の曇鸞大師(どんらんだいし)というお坊さんは
お経の最初に「如是」と書いてあるのは、お釈迦さまの言葉を信じることが仏道のはじめの一歩であることを明らかにしています。
[経の始めに「如是」と称(しょう)するは、信を能入(のうにゅう)となすことを彰(あらわ)す。]
と教えてくれているよ。
阿弥|でもお釈迦さまが説いたのであれば、「私の教えはこうですよ」とお釈迦さま本人が言えばいいのに、「こう聞きました」ってわざわざ弟子が言うのは二度手間ですよね。
先生|それは確かに疑問だよね。
ただ、実はお経というのはお釈迦さまが説いたことには間違いないんだけれども、お釈迦さま自身が書き残したものはないんだ。
阿弥|えっ、そうなんですか?
先生|薬はお医者さんが患者さんの症状に合わせて処方するように、お経はお釈迦さまが目の前の相手の能力に合わせて説いたものだからね。
オーダーメイドだから、文章に残してみんなが読むような形ではなかったんだよ。
そのお陰で聞き手はしっかり理解ができたから、お釈迦さまがいらっしゃった時はそれでよかったんだけど……。
阿弥|テープレコーダーもビデオカメラもない時代ですから、文章で残さないと後世の人たちは誰もお釈迦さまの話を聞けなくなるじゃないですか。
先生|そこでお釈迦さまが亡くなったあと、大切な言葉を残すために教えを聞いた多くのお弟子が集まって、お釈迦さまから聞いた説法をみんなの前で話したんだ。
「私はお釈迦さまからこんな話を聞いたよ」
「自分は師匠にこういう説法をしてもらった」
それでお互いに「私もそう聞いた」「その話は間違いない」と確認できたものだけをお経として残したんだよ。
阿弥|ひとりが聞いただけでは信憑性に欠けるから、みんなで集まって確認したんですね。
先生|この出来事を「結集(けつじゅう)」っていうんだ。
阿弥|そのときに弟子同士の確認作業で必要なルールがこの「六事成就」だったんですね。
先生|おっしゃる通り。だからこそ最初に「お釈迦さまが説かれたその通りに(信)私は聞きました(聞)」と始まることが大切なんだよ。
もしも聞いた人の私見が入ってしまったら、お釈迦さまの説法とは認められないからね。
【如是我聞】はお経の成立に欠かせないものなんだ。
阿弥|お経の話というと、「非科学的だ」と私見を挟みたくなりますが、「ありのままに」「阿難さんのように」聞けるように頑張ってみます!