なぜ人を殺してはいけないのか

教員をしている友人から、

「生徒から『なぜ人を殺してはいけないんですか』と聞かれたので、どう答えればいいのか教えてほしい」

と聞かれました。


生徒が好奇心で聞いているだけ、もしくは教員を困らせようと思って聞いているだけなら、あまり真面目に答えても……。
やはり、「どうしてその問いが起こったのか」と背景を考えることが大事だと伝えました。


しかし、友人はどうしても何か返す言葉が欲しいようです。それならばと一緒に考えることにしました。

「自分が殺されないため」
「地獄に堕ちるから」
「法律で禁止されているから」
「人を殺してはいけないことに理由などない」

答え方はいくつもあります。


ただ、私はもっと根本的な問題が気になります。それは

「『人を殺してはいけない理由』が明確にあれば、人は人を殺さなくなるのか」

ということと、

「『人を殺してもいい理由』が明確にあれば、人は人を殺すのか」

ということです。

私は……というより、浄土真宗の教えから考えると、どちらも間違っているのではないでしょうか。
理由があってもなくても、人殺しをする縁があれば人殺しは起きるし、人殺しをしない縁があれば人殺しは起きません。
「人を殺してはいけない理由」を上手に答えたところで、そこに強制力や推進力が生まれることはないでしょう。

なぜなら、人は決して「理由」で生きているわけではないからです。


以上の見解から、

「なぜ人を殺してはいけないんですか」

と聞かれたら、

「まず大前提として法律で決まっているし、多くの人に迷惑がかかるので人殺しはやめましょう。ダメなものはダメです。
そもそも、理由があれば自分の行動を思い通りにできると思っていることが根本的に間違っています。
人を殺してはいけない理由があっても人を殺すのが人間だし、人を殺す理由があっても人を殺さないのが人間です。私たちはそうした弱さ、愚かさ、危うさを抱えています」

と答えてはどうかと提案しました。


当然のことながら「そんなことを教員が言えるわけがない」と却下されました。

相手を立派に変えることを目的とした教育と、「愚痴にかへりて(本来の私の姿にかえる)」という宗教では根本的に役割も立場も違うので仕方がありません。予想はしていましたが。

どちらにしても言葉で相手を屈するということは難しいでしょう。そもそも、自分で自分のことを「いつ人を殺してもおかしくはない悪人」と本当に自覚することも不可能です。

理由や理屈で人間をコントロールできると考える前提が間違っているのです。


ちょうど手元に『生かされて生きる―どうして人を殺してはいけないのですか?ー』という淺田正博和上の本がありましたので結論部分を紹介します。

最後に「なぜ人を殺してはいけないか」ということに対して、仏教学の立場からこれを考えておきたいと思います。
学生に対して「地獄に堕ちるよ」といったのは、学生の問題意識を高揚するためあって、これが回答ではないのは申すまでもありません。
また、頭ごなしに否定するというのも手段であって、理屈ではありません。
そこで、今の私の結論としては、「仏となる可能性を経つからダメだ」と考えています。

生命とは、仏となる可能性を秘めているものです。その命を絶つということは、仏と成る可能性を絶つことでもあるのです。
すでに提示しましたように、仏教の定義の第3番目に「成仏教」がありました。これが究極的な仏教の目的です。私が成仏する道が仏教です。
その事はとりもなおさず、すべての衆生が成仏する事のできる教えであるといってもよいでしょう。これは、命があるからこそ、この目的を達成することができるのです。だからこそ命は尊いのです。仏と成ることができるからこそ、命は尊いのです。これが私の考える結論です。

ところが、問題はその次でしょう。仏と成ることが如何にすばらしいことであるか、また大切なことであるか、これを学生たちに理解させなければなりません。
今日の学生に接していて、これは至難なことだと感じます。だからこそ、それがわかるまでは頭ごなしに「人を殺してはいけない」と教えたいといっているのです。
仏と成ることのすばらしさが理解できるまで、「理屈抜きで否定して欲しい」という意味なのです。

では、仏に成るためにはどのようにすればよいのでしょう。その手段・方法はいろいろあります。自力の教えもありますし、他力の教えもあります。比叡山の千日回峰行などは自力の代表的な修行といえましょう。座禅も念仏も題目も、すべて仏となるための手段です。これらの教学を総合的に学ぶことのできるのは、我が龍谷大学の仏教学科だけです。
また、自力の修行を成し遂げることができない人であっても仏に成ることができるという、親鸞聖人の他力の教えもあります。念仏によってすべての人が成仏していただけるという聖人の教えのすばらしさも、龍谷大学の真宗学科で学べます。
しかし、親鸞聖人の教えを学ぶ基本には、仏教的教養が必要だということも理解できると思います。ですから、総じて仏教に関心のある方はぜひとも、龍谷大学の仏教学科で学んでいただきたい。「いのち」を見つめることのできる人生を送るために……。

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2018年03月25日