ある先生から「アングリマーラの説話を親鸞聖人も知っていたのではないか」という話を聞いたことがあります。
『歎異抄(たんにしょう)』という書物に、親鸞聖人とその門弟である唯円の次のような対話が綴られています。
「唯円房は私の言うことを信じますか」
「はい、師匠の言葉は信じます」
「では、私が言うことには背きませんね」
「もちろんです」
「わかりました。今から人を1000人殺してきてくれませんか。そうすればあなたの往生は間違いありません」
「聖人の仰せではありますが、私のような小心者にはひとりとして殺すことなどできるとは思いません」
「それでは、どうしてこの親鸞の言うことに背かないなどと言ったのですか」
「それは……」
「これで分かったでしょう。どんなことでも自分の思い通りになるのなら、『浄土に往生するために1000人の人を殺せ』と私が言ったときに、すぐに殺すことができるはずです。
しかし、思い通りに殺すことのできる縁がないから、ひとりも殺さないだけなのです。
自分の心が善い心だから殺さないわけではありません。また、殺すつもりがなくても、100人、あるいは1000人の人を殺すこともあるでしょう」
人間というものは自分の意志や理性ではどうにもならない不安定な存在です。不確かな自分をあてにせず、阿弥陀如来のはたらきに委ねることを聖人は唯円に伝えています。
「1000人を殺す」という共通のキーワードがあることから、親鸞聖人の言葉はアングリマーラの説話が背景にあるのでは……と考える人もいるようです。真偽は不明です。
立派な青年であったアングリマーラが恐ろしい殺人鬼となる──親鸞聖人は彼の逸話を人間の危うさを表したものと読まれたのかも知れません。
人は自分で自分を思うように制御できない悲しい存在であることが、原文では「宿業」という重い言葉で表されています。
だからこそ、「そのままを私にまかせよ」とおっしゃる如来の本願力にたのみまかせて念仏申すほかには救われる道はない……それこそが自力を離れて他力に帰する「他力信心」であります。
『歎異抄』では続けて、
さるべき業縁(ごうえん)のもよほさば、いかなるふるまひもすべし
[現代語訳]人は誰でも“しかるべき縁”がはたらけば、どのような行いもするものである
と述べられています。
ブログで触れた「アイヒマン実験」(1・2)や「スタンフォード監獄実験」(1・2・3・4)は、この宗祖の言葉と通じるものがあるように思います。
浅原才市(あさはらさいち)というお念仏の教えを喜ばれた人にはこんなエピソードが残っています。
あるとき、学者が「あなたのことを取材して、本にしたいのですが」と才市を訊ねてきました。
しかし、才市は「やめておけ。私が今から人殺しをするかもわからん。そうしたら、あんた大恥をかくで」と断ったといいます。
才市が亡くなる前年のエピソードとして知られます。「状況次第で人間は何をするかわからない」、最晩年までそういった態度を貫いていたのでしょう。