「スタンフォード監獄実験」を通じて少し考えたことがあります。
「普通の人や善良な人が状況によって悪魔になる」というジンバルドー教授の考え方と、「本性が悪人(悪魔)であって行為に及ばないのは縁に触れないから」という浄土真宗の考え方は少し違うのではないでしょうか。
ここには人間を肯定的に見るか、否定的に見るか……キリスト教と仏教の違いが表れているように思います。
仏教は生きとし生けるものがお釈迦さまと同じように仏陀となることをめざします。仮に全人類が一斉に仏陀になったとしたら、誰も食事をしなくなり、数十日後には人類は絶滅するでしょう。
といっても、絶滅というのは仏陀ではない凡夫の感覚です。悟りを開いて目覚めた者に根源的生存欲はありません。
そのため、「滅ぶ」「生じる」という概念が失われ、「絶滅」といったこともなくなります。
他にもお釈迦さまは悟りをめざす修行者に対して、「子を望んではならぬ」(『ブッダの真理のことば・感興のことば』)とおっしゃっています。仏陀となるものは生殖行為は止めねばなりません。
ということは、生きとし生けるものが仏陀となることは人間も動物も魚も生殖行為から離れることを意味します。現実的には不可能ですから、お釈迦さまは人間の出家修行者のみにおっしゃいました。
ただ、仏教はそうした性格を持つ教えであることには違いありません。
対して、キリスト教は基本的にこの世の成り立ちを肯定する宗教です。この世界は神様が創造したもので、人も動物も自然もすべてが神様の作品と考えます。
それぞれの個体性を保って相続することが罪であるとは受け止めないでしょう。
そういう意味では、仏教は基本的に現世否定の宗教です。否定という言葉が強いと感じるならば、「この世を祝福しない宗教」といってもいいでしょう。
「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という神様を信仰するキリスト教とは対照的です。生きものが産んで、増えて、地に満ちることは、「火宅無常の世界」にさらに油を注ぐことになります。
仏教でも浄土教では、肉食や生殖行為は禁止されていません。しかし、それは「いたしかたがない」とうことにすぎないです。
決して食物連鎖や生殖行為で織りなされた生物界のありさまが「いのち輝く素晴らしい生命の世界」と讃えているわけではありません。あくまでも、煩悩の火が燃えさかった世界です。
煩悩についても、凡夫の力では滅ぼしようのないものであると考えますが、煩悩を祝福しているわけではありません。
この世はあくまで穢れた世界(穢土)です。煩悩が燃え上がっている世界であって、キリスト教のように神に祝福された世界といった考え方とは一線を画します。
仏教では弱肉強食の悲惨なこの世界を決して肯定しません。祝福されるべき本当に幸のある世界は「さとりの世界」であって、煩悩が滅んだ世界。
人間も動物もない、食うも食われるもない、男も女もない、自分も他人もない、善も悪もない、病も老いもない、生も死もない世界。
そして「人間」にも「動物」にも「男」にも「女」にも「子ども」にも「女」にも「善人」にも「悪人」にも「病人」にも……遊ぶように自由自在に変化できる真空妙有の世界、すなわち広大無辺のお浄土という世界です。〈参考『仏教はなにを問題としているのか』松尾宣昭〉
この人間に対する解釈の違いによって、実験結果の解釈も変化するのではないでしょうか。
合掌