道なき道を歩いてきた僕は「不安」について、明確な答えを持っている。
それは「不安はなくならない」ということだ。
不安は自分そのもの。
登山家・栗城史多(くりきのぶかず)
物質的に恵まれない時代を生きた人びとから見れば、現在の日本は信じられないほど物が溢れかえり、便利な世の中になりました。医療や栄養の進歩で、平均寿命も長くなっています。
にも関わらず、現代人は物質的に恵まれない時代の人々が経験したことのない、なんとも言えない息苦しさを感じて生きています。便利になればなるほど、物が豊かになればなるほど、長生きになればなるほど、私たちの不安は取り除かれるどころか、ますます大きくなっているのです。
老後が不安でしょうがない。仕事が上手くいくのだろうか不安でしょうがない。さらには、皆がしているのと同じことをしていないと不安でしょうがない。現代人は、こうした漠然とした不安を抱えながら生きています。物質的な豊かさの中の不安と言ってよいでしょう。
一方で、この漠然とした不安をなんとか解消しようと必死に努力して生きているのも現代人です。その努力は認めるとしても、根本的な解消の出口が見つからないまま追い詰められているようにも思えます。なぜなら、残念ながら根本的な解決策はないからです。
「もっと裕福な暮らしをしたい」「もっと便利さを享受したい」「もっと長生きしたい」と、欲望がいくらでも膨らんでいくのが、人間の基本的な姿である以上、普通の生き方をしているかぎり、不安は常についてまわります。
もう少し心安らかに生きたいと願うのならば、不安を解消しようと出口のないところで努力するよりは、世の中はこういうものだと不安を受け入れるしかありません。
そのうえで、目の前に起こる一つひとつの出来事に、一喜一憂せざるを得ないとしても、自分の人生そのものを賭けてしまわないことです。そして、いのちの繋がりという、もっと広い別の世界があることに目を向けることです。動物も植物もその繋がりの中で、精いっぱいに生きています。
人間もまた同じように、自然の繋がりに支えられて、いのちに恵まれているのだと気が付けば、たとえ目の前のことが上手くいかなかった場合でも、不安を抱えながらも穏やかな心で生きていけるのではないでしょうか。
不安だからといって、その場かぎりの解決で取り繕い、ごまかすだけでは、心穏やかな人生を送れません。不安を不安として受け入れて、じっと辛抱する。たとえ困ったときに自分から逃げていく人がいたとしても、絶望するのではなく、まわりをよく見渡せば、あなたの支えになってくれる存在がきっと現れます。
(参考『人生は価値ある一瞬』より)