人、世間愛欲のなかにありて、独り生れ独り死し、独り去り独り来る。[『仏説無量寿経』より]

人間は基本的に孤独です。生まれてくるのも独りなら、死んでいくのも独り。自分の人生を誰か他の人に代わってもらえない以上、その孤独を直視して生きていくしかありません。
反面、この世は独りでは生きていくことができないのも事実です。自分のいのちは様々な繋がりの中で成り立っており、「一つの縁が欠けたら、明日のいのちはない」と言ってもよいぐらいです。人間は孤独であると同時に、目に見えない部分で支え合って生きています。

ひと昔前までは、地縁や血縁でがんじがらめになっており、そうした繋がりを「窮屈だ」と嫌がる人もいました。
確かに窮屈な面はありましたが、それによって人間は孤独にならずに済んでいた面もあったように思います。最近は核家族化や地域コミュニティの崩壊で、そうした地縁や血縁は切れてきました。
その分、煩わしさはなくなったのかも知れませんが、自分が拠り所とする繋がりが崩壊したことで、ますます孤独に押しやられているのではないでしょうか。
こうした状況はそう簡単に解決するはずがなく、現代人は放っておくと孤独にならざるを得ないとも言えるでしょう。

若い人はその一つの解決法として、スマートフォンやパソコンを使い、知り合いや会ったこともない人とインターネットで応答しています。一見、それらのツールで誰かと繋がっているように見えますが、本当は誰とも繋がることは出来ません。
インターネットを通じた人との繋がりは、人間全体の接触ではなく、画面に現れた情報だけのやりとりです。相手と直接会えば、顔の表情や声のニュアンスが伝わりますし、電話でも相手と生の声で話ができます。
画面上における文字だけでのやりとりでは、相手の顔も見えず、声も聞こえず、人間的接触とは言い難いでしょう。不完全な孤独の解消法でしかないため、インターネット上でのやりとりでは物足らず、人間的な接触を求めて見知らぬ人に会いに出掛けたりするのでしょう。

もちろん、インターネットでのやりとりを否定するつもりはありません。しかし、画面の中にしかいのちの関係性がないとしたら、孤独感は深まる一方です。
これでは、孤独に耐えられるはずがなく、誰かに心を癒やして欲しいと常に願い、それが叶えられないと社会に対して過剰な被害者意識を抱き、事件の加害者になってしまったりします。

誰かに心を癒やして欲しい、私の話を聞いて欲しいと願うのは、受け身でしかありません。待っているから段々と孤独が深まるわけで、この社会の抱える問題を身近なところから考えて、少しでもよくするために動き出してみる。
例えばボランティア団体など自分の利害と関係しない“人とのつながり”に参加し、自分からこころを開いていけば、孤独は解消されていくのではないでしょうか。

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2016年10月01日