死んで往ける道はそのまま生きてゆく道です[東 昇(ひがし のぼる)]

「どうすれば安心して心豊かに命終わっていけるのでしょうか」という質問に対して、とあるお坊さんがこう答えられました。

「何事も自分の思い通りに上手く成し遂げるためには、練習が必要ですよ。思い通りに上手に死んでいこうと思うのなら、今晩から死ぬ練習をしなさい。……でも、いきなり死ぬ練習をするのは難しいだろうから、その前に【自分の身近な人が、今まさに目の前でいのちを終えようとしているその時に、あなたがその人にどんな言葉をかけることが出来るか】このことを少し考えてくみてださい」。

ある年に、全く初めてのご縁の方のお葬式をしたことがあります。お亡くなりになられたのは50代前半の女性でした。5年前からガンで闘病生活をされていたそうです。遺影に写る故人を見てみると、穏やかに微笑まれています。「この写真はいつ頃のものですか?」と私が尋ねると、息子さんが「3年前に行った最後の家族旅行の写真です」と答えられました。

5年前にガンだと分かった時に、家族の方は「頑張れ、頑張れ。ガンに負けてどうするんだ。病気に打ち勝って」と、声を掛けたのではないでしょうか。ご本人も歯をくいしばって頑張り、手術も受けられ、抗ガン剤の治療も受けられたと思います。お医者さんの許可があって旅行に行かれたときはさぞ嬉しかったはずです。だからこそ、穏やかな顔で写っていたのでしょう。

ところが、旅行から帰ってしばらくすると、ガンが再発。最後の床に伏すにその方に、家族がかけた言葉が、五年前と同じ「頑張れ、病気に負けてはダメだ」というものだったら、寂しくはないでしょうか。5年間も頑張ってきた方、苦しみ抜いた方に、まだ「頑張れ」と言わねばならないのはお互いに辛いものです。

仏さまの教えに触れていると、少しずつ言葉遣いが変わっていきます。「頑張れ」という言葉が減ってきて、「有り難う・ご苦労さま」という言葉が増えていきます。身近な人を見送っていく時に、「お母さん、有り難う。お疲れさまでした。もう頑張らなくてもいいよ。仏さまがご一緒だからね。先にお浄土で待っててね。私もあとから行くからね」という言葉遣いができるようになってくるのです。

もう一つ、自分が死ぬ姿も想像してみましょう。子供や孫が集まって「ばあちゃん、ありがとう。お疲れ様でした。仏さまがご一緒だから安心だね。私もあとでいくからね」と見送られる声を聞きながら、「ありがとう、世話になったね」とお礼を言いながら自分の人生を終えていく。そんな最後を迎えさせて頂ければ、安心して心豊かに命終わっていけるのではないでしょうか。

これをしないといけない……という話ではありません。しかし、必ず死を迎えねばならない我が身を見つめ直し、仏さまの教えに触れていくというのも、自分の人生を豊かに生きて終えていくことに繋がっていく、尊い人生の送り方といえるのではないでしょうか。

(参考『築地本願寺新報』より)

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2016年09月01日