「浄土真宗のお坊さんはどうして結婚してもいいの?」
という質問をたまに受けます。
この質問の背景には「本来、お坊さんは結婚をするべきではない」という先入観があるのでしょう。
仏教以外の宗教では結婚についてどのようにかんがえているのでしょうか。
比較思想事典などを参照すると、それぞれの宗教の結婚観を特徴付けるものは「性的な関係」と「子孫を産むという行為」の捉え方にあるようです。
たとえばユダヤ教では「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」(『旧約聖書』「創世記」)という観点から結婚は正当なものとされます。
キリスト教でも結婚は「神が人間を想像したときに定めた秩序」とされるそうです。
イスラーム社会で結婚は「神の命ずるもの」として重要視され、結婚契約にはさまざまな規定が盛り込まれています。
ヒンドゥー教では「結婚によって生まれた息子が先祖の祭詞を継承する」とされ、やはり重要な意味を持っています。
その一方で、性的な関係は「罪に導きやすい行為」とも考えられ、淫らな関係については厳しく戒られています。
仏教の場合はどうでしょうか。出家修行者は性的交渉そのものが認められていません。結婚は不可です。
対して在家信者は家庭を持ち、それぞれの社会生活を営みつつ仏教を信奉しますから、結婚は禁じられていません。ただし「邪淫」、つまり浮気は禁止です。
子どもを産むための行為という観点からは、どのように考えられるでしょうか。
仏教では人間としての生も含めて、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六つの迷いの世界を生まれ変わり死に変わりすることを「輪廻」と呼び、その迷いのサイクルである輪廻から解き放たれ脱すること「解脱」を目的とします。
すると、人間として生まれ変わるサイクルを継続する生殖行為には積極的な意義は与えられません。
そして「悟りを開く」ということは執着を離れるということです。悟りを求めて仏道修行をする者である限り「特定の人と夫婦になる」という執われだけでなく、性的な執われも断つべきであり、さらには「禁欲的な生き方」にも執われない生き方が理想とされています。
浄土真宗の宗祖である親鸞聖人は、念仏者として恵信尼さまとともに家庭を築かれました。
僧侶の結婚が戒律で禁じられているとすれば、親鸞聖人は戒を破ったということになります。
しかし親鸞聖人は、日本の天台宗を開かれた最澄が著したとされる『末法灯明記』に依って「仏法の教えしか残っていない末法の世においては、そもそも戒律は成り立たない」という考えをお持ちでした。
ですから、戒を破るということもなく、ただ「無戒名字の比丘」こそが、世間の宝として尊ばれるとされました。
「無戒」とは、すべてが真実であった法蔵菩薩のすがたによって知らされる私自身の虚仮不実のすがたに他なりません。
あらゆる戒を見た目だけでなく、心の内面も含めて智慧にもとづいて守ったのが法蔵菩薩であり、内心どころか形式的にさえ戒を守れないのが無明煩悩にまみれ自分を中心とする思いに振り回されているこの私だからです。
「僧侶は結婚してはいけないのではないか」と考えている人は、どこかで僧侶は特別な存在であると思い込んでいないでしょうか。
浄土真宗では僧籍の有無に関わらず、私たちはみな凡夫です。凡夫である私たち一人ひとりを必ず救い取って悟りを得させようと誓われた阿弥陀如来の願いの前では「結婚をしている」「結婚をしていない」とか、そのようなことはなんの障(さまた)げにもなりません。
念仏者にとっての結婚とは「無碍の一道」を歩んでいく選択肢のひとつです。
〈参考『季刊せいてん』より〉