生き方


3泊4日に及ぶ研修会が無事に終わりました。


先月まで、西本願寺では大きな法要が行われていたことを何度か書きました。
こうした大きな法要の際は、西本願寺の住職が「ご親教(しんきょう)」、つまりご法話をくださいます。今回の法要では、最初にこんなお話がありました。

念仏者の生き方
仏教は今から約2500年前、釈尊(しゃくそん)がさとりを開いて仏陀(ぶっだ)となられたことに始まります。わが国では、仏教はもともと仏法(ぶっぽう)と呼ばれていました。ここでいう法とは、この世界と私たち人間のありのままの真実ということであり、これは時間と場所を超えた普遍的な真実です。そして、この真実を見抜き、目覚めた人を仏陀といい、私たちに苦悩を超えて生きていく道を教えてくれるのが仏教です。
仏教では、この世界と私たちのありのままの姿を「諸行無常(しょぎょうむじょう)」と「縁起(えんぎ)」という言葉で表します。「諸行無常」とは、この世界のすべての物事は一瞬もとどまることなく移り変わっているということであり、「縁起」とは、その一瞬ごとにすべての物事は、原因や条件が互いに関わりあって存在しているという真実です。したがって、そのような世界のあり方の中には、固定した変化しない私というものは存在しません。
しかし、私たちはこのありのままの真実に気づかず、自分というものを固定した実体と考え、欲望の赴くままに自分にとって損か得か、好きか嫌いかなど、常に自己中心の心で物事を捉えています。その結果、自分の思い通りにならないことで悩み苦しんだり、争いを起こしたりして、苦悩の人生から一歩たりとも自由になれないのです。このように真実に背(そむ)いた自己中心性を仏教では無明煩悩(むみょうぼんのう)といい、この煩悩が私たちを迷いの世界に繋(つな)ぎ止める原因となるのです。なかでも代表的な煩悩は、むさぼり・いかり・おろかさの三つで、これを三毒(さんどく)の煩悩といいます。
親鸞聖人(しんらんしょうにん)も煩悩を克服し、さとりを得るために比叡山(ひえいざん)で20年にわたりご修行に励まれました。しかし、どれほど修行に励もうとも、自らの力では断ち切れない煩悩の深さを自覚され、ついに比叡山を下り、法然(ほうねん)聖人のお導きによって阿弥陀如来(あみだにょらい)の救いのはたらきに出遇(あ)われました。阿弥陀如来とは、悩み苦しむすべてのものをそのまま救い、さとりの世界へ導こうと願われ、その願い通りにはたらき続けてくださっている仏さまです。この願いを、本願(ほんがん)といいます。我執(がしゅう)、我欲(がよく)の世界に迷い込み、そこから抜け出せない私を、そのままの姿で救うとはたらき続けていてくださる阿弥陀如来のご本願ほど、有り難いお慈悲(じひ)はありません。しかし、今ここでの救いの中にありながらも、そのお慈悲ひとすじにお任せできない、よろこべない私の愚かさ、煩悩の深さに悲嘆(ひたん)せざるをえません。
私たちは阿弥陀如来のご本願を聞かせていただくことで、自分本位にしか生きられない無明の存在であることに気づかされ、できる限り身を慎(つつし)み、言葉を慎んで、少しずつでも煩悩を克服する生き方へとつくり変えられていくのです。それは例えば、自分自身のあり方としては、欲を少なくして足ることを知る「少欲知足(しょうよくちそく)」であり、他者に対しては、穏やかな顔と優しい言葉で接する「和顔愛語(わげんあいご)」という生き方です。たとえ、それらが仏さまの真似事(まねごと)といわれようとも、ありのままの真実に教え導かれて、そのように志して生きる人間に育てられるのです。このことを親鸞聖人は門弟に宛てたお手紙で、「(あなた方は)今、すべての人びとを救おうという阿弥陀如来のご本願のお心をお聞きし、愚かなる無明の酔いも次第にさめ、むさぼり・いかり・おろかさという三つの毒も少しずつ好まぬようになり、阿弥陀仏の薬をつねに好む身となっておられるのです」とお示しになられています。たいへん重いご教示です。
今日、世界にはテロや武力紛争、経済格差、地球温暖化、核物質の拡散、差別を含む人権の抑圧など、世界規模での人類の生存に関わる困難な問題が山積していますが、これらの原因の根本は、ありのままの真実に背いて生きる私たちの無明煩悩にあります。もちろん、私たちはこの命を終える瞬間まで、我欲に執(とら)われた煩悩具足(ぼんのうぐそく)の愚かな存在であり、仏さまのような執われのない完全に清らかな行いはできません。しかし、それでも仏法を依りどころとして生きていくことで、私たちは他者の喜びを自らの喜びとし、他者の苦しみを自らの苦しみとするなど、少しでも仏さまのお心にかなう生き方を目指し、精一杯(せいいっぱい)努力させていただく人間になるのです。
国の内外、あらゆる人びとに阿弥陀如来の智慧(ちえ)と慈悲(じひ)を正しく、わかりやすく伝え、そのお心にかなうよう私たち一人ひとりが行動することにより、自他ともに心豊かに生きていくことのできる社会の実現に努めたいと思います。世界の幸せのため、実践運動の推進を通し、ともに確かな歩みを進めてまいりましょう。

次世代を担う若いご門主らしく、社会性に重きを置いた尊いご提言です。今回の研修では、このご門主のお言葉を受けて「浄土真宗の教えを聞く人の生き方」を扱う講義が多かったように感じます。

研修中に三重県の先輩僧侶から「私たちは尊敬する人の後ろ姿や生き様に育てられていくのではないか」という言葉を聞いて気付かされたのが、「生き方」というのはその人の「生き様」にのみ表れるということです。
少し穿った見方かも分かりませんが、生きる“すがた”は言葉や理屈にした時点で全く別物の嘘や幻となってしまうような気がしてなりません。
「生き方」を伝え弘めていくには、「生き様」で示す以外にないように思います。何はともあれ、できる範囲で仏法が弘まっていく邪魔にならないように努めたいものです。

合掌

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2017年06月16日