蚕繭自縛

これまで毎週日曜日に法話を更新するようにしていたのですが、最近は滞っております。


その原因は明らかで、とあるお坊さんから掲載されている内容にクレームをつけられるというシンプルなものです。


本人にも告げましたが、ログインすると自動的にタイムラインが目に入ってしまうSNSならともかく、わざわざネットの片隅にあるお寺のホームページまでアクセスして文句を言ってくるなんて……よほど私生活で嫌なことがあったんだろうなと心配になってしまいました。
そうした人を刺激しないように沈黙を守るということも大切な選択肢のひとつでしょう。


しかし、ありがたいことに色々なところで「お寺のブログを読んでます」「法話の更新を楽しみにしています」といった声を掛けてもらえるようにもなりました。

ボチボチと更新を再開しようと思うのですが、不特定多数に対して発信しているものなので、あまり専門的過ぎる法話を書く訳にはいかないですし、だからといって淡白すぎてもまた何かしら言われそうですし、布教の現場で用いているしっかりと練りこまれた話をここで載せることも憚られるという思いがあります。


そうすると、ホームページに掲載する上でちょうどいいバランスの法話ってなんだろうか。やはり定番で有名な話の方が……と悩まなくてもいいことで悩んでしまいます。


このブログに関しても、立ち上げる時は「ホームページまでわざわざ見に来る人は、よっぽど稱名寺のことが好きなのだろうから、人目は気にせずなんでも自由に書いていこう」と考えていましたが、いざ始めてみると色々と気になってしまってあんまり好き放題に本音は書けないことに気がつきます。
そもそもお寺や仏教に関係がないことは書けないですし……もちろん、誰も気にしないのかも知れませんが、つい自分であれこれと勝手に考えて自分を縛って抑えるようになってしまうものです。


親鸞聖人が仰がれた中国の高僧・曇鸞大師(どんらんだいし)の『往生論註(おうじょうろんちゅう)』という書物の中に

蚕繭(さんけん)の自縛(じばく)するがごとし

という言葉があります。


(かいこ)が自分で吐いた糸で作った繭(まゆ)で自分自身を縛りつけるように、人間も自らの煩悩によって自分自身を縛って苦しめていることを示した言葉です。

「浄土真宗は修業がなくてなんでもありだから、やりたい放題で楽だよね」と言われることがありますが、実は「なんでもあり」の方が凡夫にとってはずっと難しいのかも知れません。

合掌

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2017年07月10日