お盆参りでお世話になっているこちらのお寺は、明治時代まで住職が常住していなかったという歴史を持っています。
浄土真宗の教えを学び、研鑽を積むための学問道場で、全国からお坊さんが教えを学ぶために集まっていた教校だったそうです。
他のお寺の住職が兼務住職となり、お寺の運営管理を任せられると同時に講義を受け持っていました。
開基&初代の住職は陳善院僧樸(ちんぜんいんそうぼく)師です。学問を志す浄土真宗のお坊さんであれば必ず知っている大学僧です。
師匠である日渓法霖(にっけいほうりん)のもとへ入門したものの、父親を早くに亡くしている僧樸師は、十分な学費をもって勉強できる状況ではありませんでした。
そのころの僧樸師の日常生活のことを、『清流紀談(せいりゅうきだん)』では次のように述べられています。
赤貧にして鉢盂(はつう)しばしば空しけれども、晏如(あんじょ)として愁(うれえ)る色なし。長爪垢面、ただ寸陰を惜しむ。分衛(托鉢)して得るところ、炊ぐに暇あらず、生米を噛み水に和して飲む。時人称して「米噛僧樸」といへりぞ
【現代語訳】僧樸の青年時代はひどく貧しくて、米びつはしばしば空っぽであった。しかし、僧樸は平然として少しも気にする様子はなかった。爪もひげも伸び放題の垢だらけで、わずかな時間も惜しんで学問にうちこんでいた。米がなくなると、頭陀袋をかけて托鉢にでかけ、布施された米を炊く暇さえ惜しんで生のままかじり、水で流し込む生活が続いた。その姿を見た人たちは、「米噛み僧樸」と呼んで敬ったという。
早くに親を亡くし、富山県からひとりで京都に出てきた僧樸師が、がむしゃらに勉強をしていた様子がうかがえます。
その後、兄弟子の道粋にたしなめられて、生米を食べることはやめたそうです。
猛烈な修学を重ねて、法霖門下のなかでまたたく間に頭角を表した僧樸は、その後も多くの逸話を残しています。
あるとき、僧樸が真言宗の学問道場である智積院(ちしゃくいん)で『法華玄義(ほっけげんぎ)』の講義を聴講していました。
そのときの僧樸のすがたは、みすぼらしい衣を着て、髭は伸び、垢まみれ。まわりの僧侶たちは「お前のような者に、この講義が理解できるわけがない。何か感想を言ってみたらどうだ」とあざ笑いました。
最初は濁していた僧樸でしたが、あまりにしつこく聞かれたので、「それでは不審に覚ゆるところを問い奉らん」と十箇条の問いを出しました。
実は、この十の問いは古来から『法華玄義』の難問とされていたものばかりでした。
聴講していた僧侶はもちろん、その時に講義を担当していた講師も答えることはできません。
そうして「本願寺に僧樸あり」と他宗からも認められた学僧となったのでした。
このころ、浄土真宗の教えに対する間違った理解が各地でおこっていました。その是正のために本願寺が各地へ赴かせていたのが僧樸師です。
その後も、何か教義に関する問題が起きれば、取り調べの責任僧侶はいつでも僧樸師だったといいます。
しばらくして僧樸師は、大阪府八尾市にある顕証寺の近くに昨夢廬(さくむろ)という草庵を建てて住むようになりました。昨夢廬とは『円覚経(えんがくきょう)』にある「生死涅槃なおし昨夢のごとし」の経文に由来するものです。
ここでの生活を続けた僧樸師が縁あって開いたお寺に私はお世話になっています。
昔は勉強に興味なかったので何も感じませんでしたが、少しだけ教えに向き合うようになった今は「由緒あるお寺のお手伝いをせていただいているのだな」と感慨に耽っています。
合掌