高山寺


取材のために栂尾山 高山寺(とがのおざんこうさんじ)へやってきました。


京都市内の西北部にあります。この地域の高尾(たかお)・槙尾(まきのお)・栂尾(とがのお)は三尾と呼ばれ、古来から紅葉の名所として、また四季折々の美しさに彩られる地として知られています。


寺伝によると奈良時代末の774(宝亀5)年に光仁天皇の勅願によって開かれました。当時は「神願寺都賀尾坊」と呼ばれていたそうです。


1206(建永元)年に明恵(みょうえ)上人が後鳥羽上皇からこの地を与えられ、「日出先照高山之寺(ひいでてまずこうさんをてらすのてら)」の勅額を受けたときに「高山寺」の寺号を掲げました。


高山寺中興開祖である明恵上人は華厳教学を究め、その徳行によって皇族・公卿・武士など多くの人びとの信仰を集めます。


その結果、「鳥獣人物戯画絵巻」に代表される数多くの文化財がお寺に集積されました。


他にも宋より帰ってきた栄西(臨済宗の開祖)からお茶の種をもらって、日本ではじめてお茶を栽培。「茶の発祥の地」としても有名なお寺です。


1994(平成6)年には世界文化遺産に登録されました。


明恵上人といえば、法然聖人の『選択本願念仏集(せんじゃくほんがんねんぶつしゅう)』に触れて、それに対する厳しい批判書『摧邪輪(ざいじゃりん)』を著したことで浄土宗・浄土真宗では有名な僧侶です。

その『摧邪輪』に対して反論をしたのが、親鸞聖人の主著である『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』……という説もあります。

ただ、明恵上人は批判と同時に念仏の教えに刺激を受けて、行法を変えるなどの工夫もしていたようです。


この明恵上人のことをいろいろと聞いたのですが、幼くして両親を亡くした悲運の人であったといいます。

そのため、生涯にわたってお釈迦さまを父親、仏眼仏母(ぶつげんぶつも)を母親と慕いました。

仏眼仏母とは、仏眼を通すと仏さまの智慧を得られることから、仏眼には仏さまが生み出す徳──つまり、母親のような徳があることによります。〈参考『岩波仏教辞典』〉


高山寺の国宝のひとつが仏眼仏母像で、「无耳法師(みみなしほうし)之母御前也」という言葉(賛)が書いてあります。
これは仏法に生きることを決意した明恵上人がこの絵像の前で自ら右耳を切り落としたことに由来します。かなり衝撃的な話です。


他に有名なのが自らが見た夢を約40年のあいだ記録を続けた『夢記(ゆめのき)』。自分の潜在意識に潜んでいる宗教的な意識を見つめ続けていたのでしょう。


寺宝のひとつに木彫りの子犬があり、これもまた明恵上人が愛玩していものです。


耳を切り落としたり、人を批判したり、木造に執着したり、夢を追求したり……非常に不安定な人だったように感じます。
これは幼少期における両親との死別に一因があるのではないでしょうか。

不安とはなんでしょうか。ある哲学者は、不安とは原罪を背負って生まれてきたことに由来していると主張しました。人間は罪深い存在だと幼い頃から教えられて育てば、そういう結論になるかもしれません。
筆者の臨床的な経験から言うと、不安の根源は、幼い子どもが母親から離れるときに感じる分離不安に由来していると思います。それは愛着不安と言い換えることもできます。
(中略)
ところが、母親が忙しかったり気まぐれだったりして、安心感が安定して与えられずに育つと、過剰に不安を感じ、必要以上に安心を求めようとしてしまいます。こうした不安型の人では、過剰な愛着行動や関心を惹く行為が特徴的だと言えます。〈岡田尊司『HPSの真実と克服への道』〉

思い返せばお釈迦さまも、法然上人も、親鸞聖人も、蓮如上人も親と早くに別れています。イスラム教の開祖であるムハンマドもそうです。
幼少期に深層心理へ抱えた深い不安が豊かな宗教観を生んだのかも知れません。

合掌

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2017年08月18日