京都での安居、北海道での布教、大阪でのお盆参りを終えて東京に帰ってきました。
さっそく、日本橋にある三井記念美術館で開催中の「地獄絵ワンダーランド」を見てきました。
先日の源信展に続いて、またもや地獄に関する展覧会です。
ここ1年くらい、仕事でも趣味でもいろいろと地獄について調べ物を続けていたのでタイムリーな展示でした。
入り口は水木しげるさんの地獄絵本『水木少年とのんのんばあの地獄めぐり』の原画がお出迎え。
源信展では見られなかったこの展示の特徴が、江戸時代以降に書かれた素朴な地獄絵や十王図です。
とても面白い展示でありました。来月から京都でも開催するようです。
ちなみに浄土真宗では地獄をどう受け止めるのでしょうか。
そもそも、私たちは自分の生き方に後悔することがあっても、本気で自分が地獄に堕ちるなんて考えることはありません。
他人に対して「あんな人は地獄行って欲しい」とか「地獄に堕ちろ」と言うことはあっても、自分のこととは真剣に受け止められないものです。
しかし、宗祖である親鸞聖人は『歎異抄(たんにしょう)』において、
いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。
【現代語訳】どのような行も満足に修めることのできない私には、どうしても地獄以外に住み家はないのです。
という言葉を残しています。
浄土真宗の教えを聞く私自身も「地獄に堕ちるべき存在である」という自覚が必要なのでしょうか。
結論から言えば、「もしも阿弥陀如来の救いに出遇っていなければ、自分は地獄に行くところであった」というのが、浄土真宗の地獄の受け止め方でしょう。
自らの罪の深いことを知らされると同時に、その罪のある私を救ってくださる仏さまがありがたい、もったいないと受け止めていきます。
専門用語でいうところの「二種深信(にしゅじんしん)」のなかに地獄と極楽を見ていくのです。ちょっと難しいですね。
このような愚かな私が救われていくのはなんと尊いことか……そうした喜びが親鸞聖人にはあったのでしょう。
自分が地獄に堕ちると受け入れられる人がいないのと同じように、自分が浄土に生まれるという話を受け入れるのも難しいです。
裏を返せば、いのち終えて浄土へ参ることを受け入れるとは、そのままが自分の罪によって地獄・餓鬼・畜生をはじめとした六道を輪廻することを受け入れるのと同じです。
悪いところである地獄は受け入れられずに、良いところである浄土だけを受け入れて「死んだらみんな浄土で仏になる」という考え方にはならない──と先生から教えてもらいました。
地獄は私の罪が裁かれていく世界ではなく、私のたどってきた過去であって、それは阿弥陀如来が私を救おうとは命がけではたらいてきてくださったお育ての歴史でもある。〈参考「歎異抄勉強会プリント」より〉
たまに相手に対して「地獄行きだ」と告げる人もいますが、自分のことはどう考えているんでしょうか。もしかしたら自分は地獄には行かないと考えているのかも知れません。
しかし、人間の生き方は生き物を殺したり、嘘をついたり、人を傷つけたり、どうやっても地獄へ向いているものです。その私を捨てない仏さまを説くのが浄土真宗です。
〈photo by narahaku / mitsui-museum〉
合掌