日本語2

以前、日本語には仏教の影響が強くあるのではないかと考察しました。


日本語を学習する時には、日本人に教えるための「国語文法」と、外国人に教えるための「日本語文法」があります。
両者には共通する用語も多くありますが、基本的な文の構造に対する考え方は大きく異なります。


前者は主語と述語を中心にした私たちにはお馴染みの文法ですが、古典文法の継続を目的に生まれたこともあって言語学的な整合性はイマイチ。


対して、後者は述語を中心とし、純粋に言語学的な整合性がある合理的文法です。
こちらの方が日本語の特徴が明確に表れていて、日本語を理解するには適切に思われます。


日本人の考え方の大きな特徴が日本語に大きく表れている「ボイス」という文法用語があります。
「声」ではなく、「態」ということです。能動とか受動というときの態です。
「誰を主役にするのか」によって動詞や助詞は変化することを指します。
例えば

私が 彼女を 見た。

この場合は「私」が主役ですが、「彼女」を主役にすると、

彼女が 私に 見られた。

となります。
助詞の「が」が「に」へ、動詞の「見た」が「見られた」に変化しています。こうした変化の対応を「ボイス」といいます。


ここまでは英語をはじめとした欧米語にも見られる文法ですが、日本語の特徴は自動詞であっても受け身となる点です。

雨が 降った

私は 雨に 降られた

このように自然を人格化して主役にする文法発想は日本語ならではのもの。


さらに日本人の心が表れた形式に「やりもらい動詞」があります。やったりもらったりを表す動詞で、具体的には「あげる」「くれる」「もらう」の3つの動詞の表現です。

私は 彼女から 日本語を 教わった。

という文章があった時に、このままでも意味は通りますが、

私は 彼女から 日本語を 教えてもらった。

このように表現した方がしっくりこないでしょうか。謙譲表現であれば教えていただいた

「もらった」という表現の裏側には、

私は 彼女から [(彼女が)日本語を教えるという思いやり]をもらった。

こうした背景があります。「思いやり」というまどろっこしい表現こそが、日本人の日本人たる所以といわれます。


小さな島国のなかで「和を尊重する」ことを大切にし、助け合いの精神が根付いているのでしょう。結果として人間関係の中で相手の立場になった「相手に~してあげる」「相手が~してくれる(くださる)」「相手から~してもらう(いただく)」という言葉遣いがよく見られるのです。

外国人にはこうした表現を使いこなすことが困難といわれます。

大相撲の把瑠都関(エストニア出身)が初優勝を飾りました。常日頃からインタビューに流暢な日本語で答える把瑠都関を見ていて、日本語が上手だなあと感心していました。
しかし、優勝インタビューを聞いたとき、やはりまだ日本人のメンタリティは完全には身についていないんだなあと思わざるをえませんでした。
土俵下でのインタビューで母親が来ていることについて聞かれた把瑠都関は、「お母さんがいなかったら、私はここにいないから」と言ったあと、涙を流しながら、「私を生んで、ありがとう」と叫んだんです。
もうおわかりですよね、日本人なら何て言うか。日本人なら、「私を生んでくれて、ありがとう」と言っているでしょう。
もちろん、把瑠都関に思いやりの気持ちがないと言っているわけではありません。お母さんを思いやる気持ちは普通の日本人以上にあるに違いありません。
ただ、日本語にはそのような相手を思いやる表現が言語形式として確立しているんですね。把瑠都関にはこの思いやりを表す表現がまだしっかりと身についていなかったと言えるわけです。

私は日本語学が専門で、長い間留学生に日本語を教えていますが、「やりもらい動詞」が上手に使えるようになるまでには、本当に長い時間がかかります。
そのためには、日本人のメンタリティ、つまり、日本人的な思いやりの気持ちを理解することが重要なんです。

〈引用・参考『日本人のための日本語文法入門』原沢伊都夫〉


「~させていただく」といった特徴的な日本語表現は、浄土真宗において大切にされてきました。これは浄土真宗がを中心となる自力の教えではなく、仏さまを中心とする他力の教えであるためと考えられます。
浄土真宗の宗祖である親鸞聖人もご自身のことは語らず、ただただ仏さまへの恩を述べることを大切にされた方です。


日本語と日本人の心と仏教・浄土真宗の精神は密接な関係があるのかも知れません。

合掌

前の投稿

次の投稿

2017年09月08日