前回は仏教における数珠(念珠)の起源について書きました。今回はその歴史を紐解きます。
親鸞聖人が尊敬していた中国浄土教の祖師である道綽禅師(どうしゃくぜんじ)は、『木槵子経』の説示にしたがって中国で最初に数珠を使った僧侶と言われます。
日に7万遍の念仏を称えており、小豆を使って数える「小豆念仏」やムクロジの種子で作った念珠を用いることを推奨していました。
禅師の手にしていた数珠は、光り輝いていて堂内を照らしていたという伝説も残っています。(『続高僧伝』)
中国では隋(518-618年)や唐(618-907年)の時代から浄土教の発展とともに念仏の数をとる法具として使われはじめたようです。
日本では百済からの仏教伝来と同じ頃(538or552年)に伝わったと考えられています。
747(天平19)年に成立した『法隆寺伽藍縁起並流記資財帳』『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』(法隆寺や大安寺の資財帳)の中にある「誦数」の表記が歴史上の文献での初出です。
奈良・平安時代の重要物品を納める東大寺の正倉院には、当時の数珠が残欠を含めて25点ほど現存しています。
琥碧誦数第1号は、119顆の琥珀玉を白組紐に通し、珠玉、水晶の曲玉で飾った誦数です。
付属する漆皮箱にある題箋から、天平勝宝4年(752)の大仏開眼会に際して奉献されたとことが分かります。(参考「宮内庁ホームページ」)
他にも聖徳太子愛用の蜻蛉玉金剛子(とんぼめこんごうし)の数珠や聖武天皇の遺品である水精(水晶)と琥珀の念珠二連が現存しているそうです。
聖徳太子の伝承には、日本で最初の数珠についてのものがあります。
619(安楽2)年、近江八幡市内に太子が願成就寺(がんじょうじゅじ)を建立した際、近くの村人たちに作り方を教えたのがその起源と伝えられています。〈YOMIURI ONLINE「三宝敬う」木珠に込め〉
東大寺に献納された聖武天皇の遺品を中心とした『東大寺献物帳』という756(天平勝宝8)年に成立した目録には、念珠が「国家の珍宝」として献納されている記述があります。
金・銀・琥珀・真珠・水晶・真珠などの高価な材料を用いて作られた数珠は、船載品として非常に貴重なものとされていました。
そのため、当時は一部の僧侶や限られた貴族の間にしか使用されていなかったようです。
数珠が仏具として僧侶以外の一般庶民にも普及したのは、仏教が民衆化した平安末期~鎌倉時代以降のこと。唐に渡った僧侶たちによって経典と同時に沈香や菩提子(菩提樹の実)といった材質でできた数珠が伝わったのも同じ時代です。
それまでは国家や貴族のための儀式や研究に重きが置かれていた仏教が、鎌倉時代に入ると民衆の救済のための存在という側面が大きくなりました。そうして「鎌倉仏教」と呼ばれる、在家の信者が生活の中で実践できるやさしい教えを説く宗派が次々と生まれたのです。
数珠も宗派に合わせて使いやすく改良され、現在の数珠もほとんどがこの時代に形成されたといわれています。
江戸時代に入ると仏教は国教として定められ、寺請制度により全国民がいずれかの寺に檀家として所属することになり、数珠の需要も急増。
元禄年間(1688~1704年)には、数珠の一般売買がはじめて公許され、数珠の解説書も登場。特に中国の禅僧たちによって伝えられた「片手(一輪)念珠」は、その手軽さもあって大いに普及しました。
〈参考『数珠のはなし』谷口幸璽〉
合掌