宗教間

12日から15日まで京都にて中央実習という研修に参加中です。
講義の最初に研修室の正面にあるご本尊に対して合掌・礼拝します。


研修会の講義で教壇に立つ講師のなかには、私たちのように宗教者ではない方もいます。
そのときに「外部講師も一緒に合掌しているのだろうか?」と気になってつい確認してしまうのは、お坊さんあるあるのひとつかも知れません。


私が見た限り、多くの講師が合掌・礼拝を一緒にすることはなかったように思います。
少し寂しく感じましたが、もちろん、それぞれが自身の宗教観をお持ちでしょうし、招かれた講師たちは社会的課題に真摯に取り組んでいる先生ですから、強い信念を持った人がほとんどです。


以前、法事でお寺にやってきた方のご親戚がキリスト教徒だったことがありました。
法事の直前にわざわざ私にそのことを伝えたうえで「お寺ではどんな作法がありますか?」と尋ねてこられました。
とりあえず、「本堂に出入りするときは一礼」「読経が始まる際には合掌・礼拝」「お経は一緒に読む」という3点と、「でもご自身の宗教があるのでしたら、ご無理なさらず」と伝えました。


しかし、法事がはじまってみるとその人は私が教えた作法をすべて行なっていました。
帰り際に理由を聞いたところ、「節操がないと思われるかも知れませんが、目の前や周りの人が大切にしているものを無下に扱うことは、どんな宗教であってもいけないことだと思います」。

そのすがたがとても尊いものに感じたと同時に、もしもこの人が「私はキリスト教徒だから仏さまなんかに礼拝しません」という態度だったら、「まぁ仕方ないか」と感じつつ、どこかで悲しさや腹立たしさが生まれたかも知れません。


「戦争を起こす原因となる」と言われて宗教が否定されることがよくあります。
しかし、本当に戦争を起こす火種となるのは、「自分の宗教が1番だから、他の宗教は否定してやる」という人間が持つ根本的な心ではないでしょうか。
(もちろん、時にはそうした心を助長する宗教もありますが……)


例えば、子どもがオモチャの取り合いで喧嘩をすれば、その原因は「オモチャ」ではなく、「このオモチャは俺の物だ」という自己中心の心です。


さらに自分に翻って考えてみると、相手がこだわりをもって「私が正しい。あなたは間違っている」という態度で臨んで来たとしても、「そうですね。人それぞれの正義がありますね」と自分のとらわれから離れて相手の意見をやわらかく受け止めることができたならば、争いは減っていくのでしょう。


といっても、基本的に人間はそれができないので、争いが完全に消えることがありません。
しかし、その立場から始めることが大切なのだと思います。


戦後に常備軍を廃止したことで知られるコスタリカの元大統領夫人であるカレン・オルセン氏は、

「平和の反対語はなんですか」

と小学生に聞かれ、

「戦争・飢餓・貧困・差別・無知・暴力・虐待など、平和の反対語は数え切れないです」

と答えたそうです。人間の営みはすべてが平和とは対極にあるのでしょう。

合掌

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2017年12月14日