御文章2

『御文章』の中で最も有名な1通は「白骨章」でしょう。

それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものはこの世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。さればいまだ万歳の人身を受けたりといふことをきかず、一生過ぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。われや先、人や先、今日ともしらず、明日ともしらず、おくれさきだつ人はもとのしづくすゑの露よりもしげしといへり。されば朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなはちふたつのまなこたちまちに閉ぢ、ひとつの息ながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて桃李のよそほひを失ひぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、さらにその甲斐あるべからず。さてしもあるべきことならねばとて、野外におくりて夜半の煙となしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あはれといふもなかなかおろかなり。されば人間のはかなきことは老少不定のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。

古文ですので、幾分かのとっつきにくさは感じますが、「白骨のみぞのこれり」や「人間のはかなきこと」など印象的な言葉が並び、時代を超えて私たちの胸に真っ直ぐと届くものがあります。

『文藝春秋』を創設した小説家・菊池寛氏が自ら作成した入社試験問題には、「白骨章」の作者を問う設問があったそうです。昭和初期には宗派を超えて、社会人・教養人に広く浸透していたことが伺えます。〈wikipediaより〉

「朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり」の一文は、『日本の古典・名文名場面100選』にも選出されました。


昨年、公開された映画『この世界の片隅に』では、作中に「白骨章」が読まれる場面があります。

 

以前、法事の最後に「白骨章」を拝読した時のこと。

“あはれといふもなかなかおろかなり”とは、厳しいお諭しですね」

帰り際に声を掛けられました。恐らくこの一文をそのまま「(人が亡くなることは当たり前だから)哀れと言ってもなかなか愚かなことだ」と受け取られたのでしょう。
他の部分が古文のままでもある程度は理解することができるので、この箇所についてもそのまま聞かれたのかも知れません。ここは「白骨章」で誤解されやすいところです。

古文を読む時の注意点の1つは、「今も同じ言葉を用いているのにも関わらず意味が変わっていること」と教えていただきました。
冒頭の「浮生なる相」のように聞き慣れない言葉であれば、ちゃんと辞書を調べることに繋がります。しかし、今も使用されている言葉であれば、今の意味で理解してしまいます。そこに注意しましょうとのことです。

「あはれ」は、今ですと「かわいそうだと不憫に思う」くらいの意味ですが、古文だと「しみじみとした趣」や「寂しさ、悲しさ」の意味です。ちなみに古語で「不憫」を意味する単語は「いとほし」です。
「なかなか」の語も、当時は「かえって」「むしろ」と読みます。
「おろか」という言葉も、現代ですと「愚か」という意味が強いのですが、蓮如上人の時代は「おろそか(疎か)」とうことを指し、「いふもおろかなり」で「言い尽くせない」という意味になるようです。

つまり、“あはれといふもなかなかおろかなり”は、「悲しいと言ってしまうと、却って疎かにしてしまう」となります。本当に身近な方を亡くした時は、「悲しい」「寂しい」という言葉では表現ができない深い悲しみがあるということでしょう。

今も昔も言葉はどんどん変わっていくことを改めて感じます。そのお陰で勉強する機会に恵まれた……と前向きに捉えていくことにします。

合掌

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2017年02月25日