経本

友人と京都のお寺へ参拝後、食事をしているとこんな質問が。

「さっきのお寺でお坊さんが読んでいたお経の内容ってわかるの?」

正直なところ、浄土真宗のお寺でなかったうえに、導師の唱法が独特すぎてほとんど聞き取ることができませんでした。その旨を素直に伝えます。

「じゃあ、君も意味不明で退屈だったんだね」

確かに「楽しかった」といえば嘘になります。

おつとめの際は、インドの言葉を中国で翻訳した「漢訳経典」や、高僧たちの言葉を原文のまま読むことがほとんどです。
さらに、中国語といっても現在とは全く違う昔の言葉。いわば、外国の古文です。海外の人が百人一首を聞くようなものでしょう。たとえお坊さんであっても、他宗であればわからないことだらけです。お坊さんではない友人が「意味不明で退屈」と感じるのもうなずけます。


問題なのは、私自身も導師としてお経を読む側にまわる機会があること。
もしかしたら──もしかしなくても、うしろで座っている参列者も「意味不明で退屈」のような思いを抱えているはず。


そのため、おつとめをするときは参拝者へお経の本を配ることを心がけています。
しかし、出来合いの経本は一長一短。使っているうちに、自分なりの要望が出てきます。


そこで、自作することにしました。

ゼロから作るのが難しい部分は、既製品の一部をスキャンすることも。解説や現代語訳をつけて自分好みに編集します。

儀礼という側面から考えれば、意味がわかる/わからないは関係ないのかもしれません。とはいえ、お参りされている人のなかには内容を知りたい人もいるかと思います。

もちろん、中身を知ったからといって仏教の真髄をすぐ理解できるかというと、そんなことはないでしょう。
ただ、どの人が書いたどんな著述に載っているのか、何が書かれていて、どのような意味があって、どんなふうに読み進めていくのか……目で追っていくだけでも時間の過ごし方は変わります。


今のところ通夜・葬儀にくわえて、永代経法要・報恩講法要などが完成。


最近は『十二礼(じゅうにらい)』と『願生偈(がんしょうげ)』の解説と現代語訳を作成中。意味を調べることも勉強になるのでありがたいです。

合掌

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2017年04月06日