親鸞聖人は『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』については、その経説に隠顕を見ていかれるのであるが、これに対して『仏説無量寿経』は「真実の教」といわれるように隠顕を見られていません。
そのため『大経』を「顕露彰灼(けんろしょうしゃく)の経」といいます。
しかし方便の願である第十九願も第二十願も『仏説無量寿経』に説かれる四十八願中の願であることを考えると、『大経』は真実だけでなく方便も説いているといえるのではないでしょうか。
ところが『仏説無量寿経』下巻「胎化段」を読むと、『大経』そのものが第十九願・第二十願の内容を否定していることがわかります。
その時に、慈氏菩薩(弥勒)、仏にまうしてまうさく、「世尊、なんの因なんの縁ありてか、かの国の人民、胎生・化生なる」と。仏、慈氏に告げたまはく、「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修して、かの国に生れんと願はん。仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じ、善本を修習して、その国に生れんと願ふ。このもろもろの衆生、かの宮殿に生れて、寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の聖衆を見ず。このゆゑに、かの国土においてこれを胎生といふ。もし衆生ありて、あきらかに仏智乃至勝智を信じ、もろもろの功徳をなして信心回向すれば、このもろもろの衆生、七宝の華のなかにおいて自然に化生し、跏趺して坐し、須臾のあひだに身相・光明・智慧・功徳、もろもろの菩薩のごとく具足し成就せん。(『註釈版』p.76)
そのとき弥勒菩薩がお釈迦さまがお尋ねした。「世尊、いったいどういうわけで、その国の人々に胎生と化生の区別があるのでしょうか」。
釈尊が弥勒菩薩に仰せになりました。「さまざまな功徳を積んでその国に生まれたいと願いながら疑いの心を持っているものは、無量寿仏の五種の智慧を知らず、この智慧を疑い、信じません。それでいて悪の報いを恐れ、善の果報を望んで善い行いをし、功徳を積んでその国に生まれたいと願うのであれば、これらのものはその国に生まれても宮殿の中にとどまり、五百年の間まったく仏を見たてまつることができず、教えを聞くことができず、菩薩や声聞たちを見ることができません。そのため無量寿仏の国土ではこれをたとえて胎生というのです。
対して無量寿仏の五種の智慧を疑いなく信じてさまざまな功徳を積み、まごころからその功徳をもってこの国に生まれようとするものは、ただちに七つの宝でできた蓮の花に座しておのずから生まれます。これを化生といい、たちまちその姿や光明、智慧、功徳などを他の菩薩たちと同じように欠けることなく身にそなえるのです」
ここに述べられる「疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修して、かの国に生れんと願はん」とは、第十九願の「もろもろの功徳を修して、至心発願してわが国に生ぜんと欲せん」に相当し、
また「なほ罪福を信じ、善本を修習して、その国に生れんと願ふ」とは、第二十願の「もろもろの徳本を植ゑて、至心回向してわが国に生ぜんと欲せん」に相当しています。
『仏説無量寿経』で「徳本」とあるのは『如来会』等では「善本」とあり、「善本」と「徳本」とは、親鸞聖人『教行信証』「化身土文類」に
善本とは如来の嘉名なり。この嘉名は万善円備せり、一切善法の本なり。ゆゑに善本といふなり。徳本とは如来の徳号なり。この徳号は一声称念するに、至徳成満し衆禍みな転ず、十方三世の徳号の本なり。ゆゑに徳本といふなり。(『註釈版』p.399)
善本とは阿弥陀仏の名号をいいます。この名号は、あらゆる善をまどかにそなえているのであり、すべての善い行いの本であるから、善本といいます。徳本とは阿弥陀仏の名号をいう。この名号は、一声称えるときこの上ない徳がその身に満ちてあらゆる罪がみな功徳に転じるのであり、過去・現在・未来のすべての仏がたにそなわる徳の名の本であるから、徳本といいます。
と述べられているとおり、ともに名号を意味しています。
そして「疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修して」「……この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じ、善本を修習して」と示されているように、第十九願・第二十願に誓われた衆生のありようは、仏智を疑惑していることに他なりません。
「なほ罪福を信じ」とは「自らの罪悪において往生できない」と思い、「自らの福善において往生できる」と思うことであって、それは衆生を無条件に往生させようという仏のはたらきを疑惑していることと同じです。
この一段を「胎化段」と呼ぶのは、阿弥陀仏の浄土に生まれるものに胎生のものと化生のものとがあると説かれているからです。その区別は仏智を疑惑しているか否かにあります。
よって仏智に疑惑することなく「あきらかに仏智乃至勝智を信じ、もろもろの功徳をなして信心回向すれば、このもろもろの衆生、七宝の華のなかにおいて自然に化生」すると説かれています。この内容こそが第十八願に誓われた衆生のありようであることはいうまでもありません。
「胎化段」の末尾には、
弥勒まさに知るべし、それ菩薩ありて疑惑を生ずるものは、大利を失すとす。このゆゑに、まさにあきらかに諸仏無上の智慧を信ずべし(『註釈版』p.79)
と示されており、「胎化段」の全体が示そうとしている内容は次の通りです。
阿弥陀仏の浄土に生まれるものには、その生まれ方に「胎生」のものと「化生」のものがあります。
胎生のものとは仏智を疑惑して自力の善根功徳において往生しようと願うものです。浄土に生まれても500年の間、仏法僧の三宝を見聞することができません。
対して化生のものとは明らかに仏智を信じて往生するものであって、このものは浄土に生まれたならば七宝の華の中に生まれ、たちまち身相・光明・智慧・功徳を菩薩のようにことごとく具えるという大いなる利益を得るのです。
このように『仏説無量寿経』は、経自身において第十九願・第二十願に誓われる衆生のありようを否定しているのであって、『大経』全体が第十八願意を説いたものといえます。そこで親鸞聖人はこの経に隠顕を見ていらっしゃらないのです。
「胎化段」は釈尊が弥勒の疑問に答えた形で示されており、阿弥陀仏の四十八願それ自体に真実願・方便願との区別を立てられたわけではありません。
しかし親鸞聖人は釈尊の説意をうかがい、釈尊の説かれた『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』には、真実願・方便願の内容を反映して隠顕があると見られたのであって、浄土三部経には真実と方便の別があると受け止められているのでしょう。