隠彰顕密⑤

「隠顕」という言葉の示す通り、方便の経である『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』には、その底流に真実へと導き入れようとする釈尊の深い深い思し召しがあると親鸞聖人は見られています。

『教行信証』「化身土文類」には

三経の大綱、顕彰隠密の義ありといへども、信心を彰して能入とす。ゆゑに経の始めに「如是」と称す。「如是」の義はすなはちよく信ずる相なり。いま三経を案ずるに、みなもつて金剛の真心を最要とせり。 (『註釈版』p.398)

『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』の三経に説く教えには顕彰隠密の義があるといっても、みな他力の信心を明らかにして、涅槃に入り因とします。そのため三経のはじめには「如是」と示されているのです。「如是」という言葉は、善く信じるすがたをあらわしている。いまこの三経をうかがうと、みな決して損なわれることのない真実の心をまさにかなめとしています。

といわれています。

すなわち『仏説無量寿経』の経説と『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』の隠彰義とを合わせて考えれば、三経は一致して第十八願意を説いているのであり、このような見方を「三経一致門」といいます。
親鸞聖人の著述の中で『浄土和讃』(三経讃)などはこの立場で書かれたものです。

一方、『仏説無量寿経』の経説と『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』の顕説義とを合わせて考えれば、三経はそれぞれ第十八願・第十九願・第二十願という別々の願意を説いたものであり、このような見方を「三経差別門」といいます。
親鸞聖人の著述の中で『教行信証』や『浄土三経往生文類』などはこの立場で書かれたものです。

『教行信証』は三経差別門に立って書かれたものであるから、第十八願意をあらわす『仏説無量寿経』については「教文類」の標挙において、

大無量寿経 {真実の教 浄土真宗}

と示されていて、また「行文類」においても、

『大無量寿経』の宗致、他力真宗の正意なり。

と述べられています。

一方、第十九願意をあらわす『仏説観無量寿経』や第二十願意をあらわす『仏説阿弥陀経』については『教行信証』「化身土文類」の標挙において、

[無量寿仏観経の意なり]
     至心発願の願 {邪定聚の機 双樹林下往生}
[阿弥陀経の意なり]
     至心回向の願 {不定聚の機 難思往生}

と示されています。このことは第十九願や第二十願、あるいは『仏説観無量寿経』や『仏説阿弥陀経』自体を否定したり、あるいは貶めたりしているわけではありません。

標挙に「邪定聚の機」「不定聚の機」とあるように、もとより問題となっているのは機のありようです。
つまり私自身が諸善万行をたのみ、如来の名号さえ自分の称えた功徳と見なしてしまう、そうした邪定聚の機・不定聚の機として如来の前に立っていたのです。

「化身土文類」において『観経』『小経』の方便義を示した後、三願転入の文の直前に

悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。おほよそ大小聖人・一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。(『註釈版』p.412)

悲しいことに煩悩にまみれた愚かな凡夫は、はかりしれない昔から、他力念仏に帰することなく、自力の心にとらわれているから、迷いの世界を離れることができません。果てしなく迷いの世界を生まれ変わり死に変わりし続けていることを考えると、限りなく長いときを経ても、本願力に身をまかせ、信心の大海に入ることはできないのです。まことに悲しむべきことであり、深く嘆くべきことでありましょう。大乗や小乗の聖者たちも、またすべての善人も、本願の名号を自分の功徳として称えるから、他力の信心を得ることができず、仏の智慧のはたらきを知ることができません。すなわち阿弥陀仏が浄土に往生する因を設けられたことを知ることができないので、真実報土に往生することがないのです。

と悲歎されるのは、本願のはたらきを前にしてもなお自力の執心を離れることのできないでいる真門自力念仏の行者についてですが、また聖人自身の過去の姿をそこに重ねて悲歎されていると見ることもできます。

方便の教えとは、このように未熟の機を真実の法門に入らせるために、機に応じて用いられる随他意の法門です。「他」とは私自身に他なりません。
つまり阿弥陀仏が第十九願・第二十願を建立し、釈尊が『観経』『小経』を開説されたのは、自力を離れることができない私のありように対して、弘願他力の法門へ入らしめんとする深い思し召しにおいてなされたものです。

親鸞聖人は三願転入の文において

ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を摭うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、ことにこれを頂戴するなり。(『註釈版』p.413)

ここに久しく本願海に入ることができ、深く仏の恩を知ることができました。この尊い恩徳に報いるために、真実の教えの要となる文を集め、常に不可思議な功徳に満ちた名号を称え、いよいよこれを喜び、つつしんでいただくのです。

と仏恩をよろこぶ思いを述べられているのは、弘願他力へ方便誘引しようとされた阿弥陀仏と釈尊の、自身に向けられたはたらきを見られているからです。

(参考・引用『親鸞聖人の教え』)

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2025年01月30日