「五十六億七千万」の和讃を読む理由について、勤式指導所時代に当時の堤主任にお尋ねしたことがあります。
宗祖親鸞聖人のご真筆草稿本『正像末和讃』(国宝─高田派本山専修寺所蔵)は「五十六億」讃から始められており、第五首の和讃
弥陀の尊号となへつつ
信楽まことにうるひとは
憶念の心つねにして
仏恩報ずるおもひあり
と、『浄土和讃』「冠頭讃」の
弥陀の名号となへつつ
信心まことにうるひとは
憶念の心つねにして
仏恩報ずるおもひあり
は「尊号」と「名号」、「信楽」と「信心」が異なるだけで同じである。
第六首の和讃の
五濁悪世の有情の
選択本願信ずれば
不可称不可説不可思議の
功徳は行者の身にみてり
と、『高僧和讃』「結讃」の
五濁悪世の衆生の
選択本願信ずれば
不可称不可説不可思議の
功徳は行者の身にみてり
は「有情」と「衆生」が異なるだけで後は同じである。
このように同じ和讃を二度用いられたのはこの二首だけであり、古来この「五十六億」の六首を宗祖御命日や報恩講で用いるのは、その意味の深さからであろう。