常識の壁1

研修会でLGBTについて勉強しました。


講師の先生に次のことを聞いてみました。


「先日、築地本願寺では男性同士の結婚式が挙げられました。偶然、私も通りかかったので参拝させていただいのですが、その儀式の名称は“仏前結婚式”ではなく“パートナーシップ仏前奉告式”でした。
こうした式が宗教施設で執り行われることは素晴らしいことだと思う反面、周りの人たちと話していると“結婚式”ではダメなのかなと疑問の声も多く出ています」

「なるほど。しかし、どうして“結婚式”という名称じゃないといけないと思うんですか。もしも、結婚式という名称だったら今ある問題は解決するのでしょうか。
これはセクシュアル・マイノリティに限った話ではありませんが、日本には結婚をすることで初めて1人前となるような『パートナー絶対主義』が存在するように思います。
例えば、渋谷区の同性パートナーシップ条例についても『パートナーシップを大切にする同性愛者だけを尊重する』となっているように感じます。
異性カップルであっても離婚した途端に不利益を被りやすい現在のシステムを、無批判に同性カップルが歓迎するのはいかがでしょうか。
確かに、同性パートナーシップが認められないことによる弊害は想像以上に大きいので、必要な条例だとは思いますし、画期的なことだと思います。でもそれだけで終わってはならないように思います。
結婚して一人前という考え方は独身者や離婚者を苦しめ、DV を覆い隠してしまったりします。
男はこうあるべき、女はこうあるべき、性はこうあるべき、結婚はこうあるべき、という教えや思い込みによって、抑圧され苦しんでいる人や、枠にはめられもがいている人は本当に多いです。
大切なのは『結婚できる、できない』とは違うところにあるのではないでしょうか」


確かに仏前結婚式なのか、パートナーシップ仏前奉告式なのか、名称については表面上のものです。
そのことを問題にしようとしている現状の本質はもっと根が深いです。


私の中には知らず知らずの内に先生が言うような「結婚して一人前。結婚式を挙げることが正義である。同性という理由で結婚式ができないなんて可哀想だ」といった思い込みがありました。


しかし、「可哀想」には「自分は結婚式を挙げられるのに、あなた達は挙げられなくて可哀想」といった上から目線が隠れています。じゃあ「結婚式」だったら可哀想じゃなくなって問題が解決するのかといえば、そんなことはありません。


常識はいつでも強い側の人間によって作られます。
そうであるからこそ、その言葉によって傷つけられる人や排除される人のことは考えられていません。
当たり前と思っていた考えが、実は誰かの居場所を奪っていた……これは私が知らないだけでもっとたくさんあるはずです。

自分が強い人間側である時には気付いていませんが、私自身も自分の弱さや脆さに直面するときに、常識によって苦しめられていくのでしょう。

合掌

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2018年01月29日