ただ念仏して

阿弥陀如来という仏さまの救いを説くのが浄土真宗の教えです。
この浄土真宗の教えのことを「お念仏ひとつで救われる教え」と表現することがあります。


『歎異抄』という書物のなかに、

親鸞におきては、「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」と、よき人の仰せを被りて信ずるほかに、別の子細なきなり。
[現代語訳]親鸞においては、「ただ念仏して、阿弥陀如来に救われ往生させていただくのである」という法然聖人(師匠)のお言葉をいただき、それを信じているだけで、他に何かがあるわけではありません。

という言葉があります。

安方哲爾先生から教わった、この言葉にまつわる印象的なエピソードをひとつ紹介します。


京都・西本願寺では7月に安居(あんご)という浄土真宗のお坊さんが全国から集まる勉強会が開催されます。


この期間中に国宝である書院・鴻の間において、「大衆招待会(だいしゅしょうたいえ)」が開かれます。安居の参加者である大衆が本願寺から招待されてご門主や偉い人たちと一緒にお茶を飲む行事です。

その行事の際に代表者が何人か挨拶をするのですが、吉田善子さんという女性は次のように語ったそうです。


「私の主人は、病気で倒れると同時に失語症によって言葉を失いました。今日明日に命が危ないという状態ではなかったものの、入院生活が続きましたので、私は毎日のように病院へお見舞いに通いました。
当時の私はお坊さんではなかったためお説教はできませんでしたが、いろいろな先生の本や、お聖教を持ち込んで主人に読み聞かせる日々が続きました。
ある日、『歎異抄』を読んでいたときのことです。私が

親鸞におきては、「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」

の言葉を読むと、聞いていた主人が『ああ、うう』と声を出しました。
驚いて主人の方に顔を向けると、両手を合わせて目にいっぱいの涙を浮かべています。『お父ちゃん、なんまんだぶつだね。なんまんだぶつだね……』。私が声をかけると、主人は深く頷きました。
きっと主人はお念仏を称えたかったんでしょう。声にはなりませんでしたが、そのことはもはや問題とならないはずです。仏さまの『あなたを捨てない仏が“南無阿弥陀仏”と届いている』という仰せを聞き受けていた主人は、親鸞聖人の言葉が嬉しかったんだと思います」


浄土真宗は「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)」のご宗旨です。といっても、称(とな)えなければ救われないというわけではありません。
お念仏を称える生活を送るご宗旨ではありますが、「南無阿弥陀仏」と発声すること自体を問題にはしていないのです。


阿弥陀如来という仏さまが、私を救わんがために「南無阿弥陀仏」と名前のすがたとなって私の元にお越しくださり、お念仏の声となって現れ出る……そのことを「お念仏ひとつで救われる」と先人方は伝えてきてくださいました。

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2017年07月23日