浄土真宗のお寺の本堂には基本的に5つの御尊影(ごそんえい|写真や肖像などの尊敬語)が安置されています。
中央の阿弥陀如来、
向かって右側の親鸞聖人の御影(ごえい|神仏・貴人・高僧の絵や写真)、
向かって左側の蓮如上人(または先師上人)の御影、
さらに向かって右外側の聖徳太子、
向かって左外側の七高僧(しちこうそう)。
これらを五尊(ごそん)さまと呼びます。私たちがお寺へお参りをして合掌・礼拝するときは、これらの尊前で行うことがほとんどです。
もちろん、お墓に手を合わせたり、夕陽に手を合わせたり、例外はいくらでもあります。
時にはこんな風に仏さまに背を向けてお参りの人たちに向かって手を合わせることもあります。
これは法話(説教)をするときの作法なので、それほど意味はないのかも知れません。
ただ、とある出来事を通じて個人的に思うことがあります。
勤式指導所に通っていたときのことです。この学校では、私たちが講義を受ける部屋の仏さまにお仏飯(ぶっぱん)を毎朝お供えをします。
お供えしたご飯は、昼休みに当番の人が西本願寺内にある仏飯所(ぶっぱんじょ)と呼ばれる部屋まで返却しに行きます。
ある日、班の仲間と2人で仏飯を返却した帰り道で、私たちに対して手を合わせるお婆さんがいました。
お坊さんの姿で歩いていると、こちらに対して合掌する人とたまに遭遇します。これはお坊さんなら1度は経験があることかも知れません。
そのときは場所が西本願寺の境内だったこともあったので、思い切って声をかけてみました。
「ようこそのお参りでございます。お手合わせいただきましてありがとうございます。もったいないことです。でも、せっかくなら私たちみたいな凡夫ではなくて、是非とも本堂の阿弥陀さまや親鸞聖人に手を合わせてください」
「いえいえ、別に私はあなたたちに手を合わせているわけではないからこれでいいんですよ」
「えっ?……じゃあ何に手を合わせていたんですか?」
「あなたたちの後ろにいる仏さまに手を合わせていたんですよ」
思わず2人で後ろを振り返りましたが、誰もいません。
「笑。後ろにいる仏さまというのはそういう意味ではなくて、あなたたちのような若い人たちをこうしてお坊さんに育ててくださった仏さまに手を合わせているという意味ですよ」
当時は私の外側にある仏さまの前で儀式を勤めることしか頭になかったのでよく分かりませんでしたが、今ならそのお婆さんが言ったことの意味が分かる気がします。
阿弥陀如来はどこか遠くや、お寺の本堂でジッとしている仏さまではなくて、私たちの心に届いてくださる仏さまです。
このことを親鸞聖人は『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』という著作のなかで、中国の僧侶である元照(がんじょう)の『阿弥陀経義疏(あみだきょうぎしょ)』を引用して次のように示されています。
いはんやわが弥陀は名をもつて物を接したまふ。ここをもつて耳に聞き口に誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入(らんにゅう)す。
【私訳】阿弥陀如来は南無阿弥陀仏という名前(名号)をもって私たちを摂め取ってくださる仏さまです。この南無阿弥陀仏を耳に聞いて、口に称える身になる人の心には、限りなく尊い功徳の仏さまが入り満ちてくださるのです。
また、私の心に入り満ちてくださっている仏さまが具体的にどのようにはたらいてるかについては、次のような親鸞聖人の言葉があります。
十方微塵世界(じっぽうみじんせかい)の 念仏の衆生をみそなわし
摂取して捨てざれば 阿弥陀となづけたてまつる
【私訳】すべての世界の、すべての時代の、すべてのいのちをお念仏を申すものに育て上げ、摂め取とって捨てることがないから阿弥陀如来と名づけられる
私が教えを聞くようになって、手を合わせるようになって、お念仏を申すようになったのは阿弥陀如来のはたらきに摂め取られているからに他なりません。
あのお婆さんは、私という人間に手を合わせていたのではなく、内側から外側から私を温めて僧侶へと育て上げてくださった阿弥陀さまに手を合わせていたということでしょう。
ちなみに“ナマステ”と手を合わせることにも、同じような意味があるようです。
そう考えると、お坊さんがお説教をするときに聞き手へ対して合掌をするのも同じような意味と考えてもいいのではないでしょうか。
お寺へお参りしてお話を聞きに来る人たちも、本人は自分で足を運んだように考えているかも知れませんが、それは同時に仏さまに導かれ育まれていることの表れだろうと私は味わっています。
人前でお話をするに際しての合掌は、目の前にいる皆さまの内なる仏さまに手を合わせているのだ……と考えると、身が引き締まる思いがします。
ということで人に対して手を合わせることも大切にしたいという個人的な述懐でした。