煩悩2

仏教では煩悩の分析が盛んに行われ、種類も細分化されました。


その数は「百八煩悩」とも「八万四千煩悩」ともいわれ、親鸞聖人は「無明煩悩しげくして 塵数(じんじゅ)のごとく遍満す」と歌われています。


中でも代表的なものが「貪欲(とんよく)」「瞋恚(しんに)」「愚痴(ぐち)」の「三毒の煩悩」です。


貪欲とは、自分に都合のいいものに愛着し、むさぼりを求めていく我欲のことで、貪愛(とんあい)ともいいます。


瞋恚とは、自分に都合の悪いものを嫌い憎み、怒り、恨むことで、瞋憎(しんぞう)ともいいます。


愚痴とは、正しい道理を知らない無知のことです。
無知といっても、ただ何も知らないということではありません。
私たちは世界と自分のありのままのすがたをありのままに見ようとせず、いつでも「良い・悪い」「好き・嫌い」「損・得」などの偏見や先入観をもって物事を眺めています。
この偏見・先入観の根本にあるものが愚痴であり、真実に暗いことから無明(むみょう)ともいわれます。


煩悩は心だけの問題ではありません。怒りが高じて血管が切れたり、陰鬱な心が続くことで吐き気や目眩の症状が現れたりするなど、身体にも不調が生じることが多々あります。


思うようにしたい(貪欲)のに、思うようにならないので腹が立ち(瞋恚)、なぜ腹が立つのかもわからず(愚痴)、ただイライラして、穏やかなあり方を見失う……煩悩がある限り人生の苦悩は尽きることがありません。


また、このような私たちの心の動きを愛憎違順(あいぞういじゅん)といいます。


対象が自分にとって都合のいい存在となれば(順)愛をおこし、むさぼり(貪欲)の心につながります。


反対に対象が自分にとって都合の悪い存在となれば、(違)憎をおこし、いかり(瞋恚)の心につながります。


むさぼりの心といかりの心が激しく大きい有り様を親鸞聖人は高い山に譬えて「愛憎違順することは 高峯岳山(こうぶがくさん)に異ならず」と歌っています。


七高僧の第五祖である中国の善導大師は、貪欲を水の河に、瞋恚を火の河に譬え、激しく荒れ狂う水火二河の真っ只中にある白道を如来廻向の信心と譬えられました。[参考|二河白道の譬え

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2018年07月01日