浄土真宗のお盆

「浄土真宗ではどのようにお盆を過ごすのでしょうか」と質問がありました。


ちょうど「浄土真宗のお盆」というタイトルの文章があったので掲載します。


盆と正月は、日本の二大行事として、古くから大切に営まれてきました。
昔、私の父が生まれ育った地域では、正月の挨拶にも「結構な盆・正月でございます」と、「正月」の前に「盆」を付けていたそうです。
お盆を迎えると、家族や親戚が集まって仏さまにお参りしたことなど、幼い頃からの様々な記憶がよみがえります。

日本の各地で迎え火・送り火、精霊棚、精霊流し等の行事が行われるように、一般に「お盆」は先祖の霊が家に帰ってきてくださる期間だとされています。
お盆の間、お墓に提灯を点して親族が集まる地域もあります。
大文字焼きで知られる京都・五山の送り火も、先祖の霊を送る行事です。
お盆には、先立った方がたと私たちの「心の絆」「いのちの絆」を確かめる役割があるようです。

しかし、お盆に先祖が帰って来るという教えは、元来、仏教にはありません。日本に仏教が伝わる以前から、ちょうどお盆の時期に先祖の霊が帰ってくるという信仰が各地にあって、それが仏教の行事と結びついたものと考えられます。

これに対し浄土真宗のお盆は、他の宗派とは違って、迎え火や送り火などをいたしません。
それはなぜかと申しますと、浄土真宗では

「阿弥陀仏のご本願のはたらきによって、真実信心をいただいた人は一生を終えたのち、阿弥陀仏の国・浄土に必ず往生し、さとりを開いて仏となり、その後この世に還ってきて、私たちを導いてくださっている」

と教えているからです。
ですから、私たちのご先祖は霊となってお盆の間だけ帰ってこられるのではなく、仏さまとなっていつも私たちを見護り、導いてくださっていると受け止めるのです。

では、そもそも仏教におけるお盆とは、どのような行事だったのでしょうか。
また、どうしてお盆と呼ばれるのでしょうか。


お盆の起源は、今から2500年前のインド、お釈迦さまの時代の「自恣(じし)」の行事にまで遡ることができます。
お釈迦さまの弟子である比丘(出家した僧侶)たちは、雨期にあたる4月16日から7月15日までの90日間、雨のために遊行に出るのが不便なことや、虫たちを踏み殺してしまう危険があることなどから、一人または二人以上でそれぞれの場所に留まり、一切外出せずに修行をしました。
これを安居(あんご)、または雨安居(うあんご)といいます。
現在、本願寺で毎年7月下旬に開講される安居は、この行事にちなんだものです。

普段、比丘たちは食事の供養を頂くために、鉢を持って在家信徒の家々を回りました。いわゆる托鉢です。
しかし、安居の期間中は外に出られないので、信徒たちは自ら比丘たちのもとへ食事を運び、その際に比丘たちから説法を聞きました。
そして、安居の最終日である7月15日の午前中、一カ所に集まった比丘たちに在家信徒たちが食事や供物を供養し、午後から比丘たちは安居の期間中に自身が犯した罪について皆の前で告白し、懺悔し合いました。
これを「自恣」といいます。

お盆のいわれは『盂蘭盆経(うらぼんきょう)』に説かれています。

お釈迦さまの弟子・目連(もくれん)は、修行を進める中で、死後の世界をも見通せる神通力を身につけました。
そこで、ずっと気にかかっていた母親の行方を探しました。
すると、あろうことが、あの優しかった母は、餓鬼の世界で飢え渇き苦しんでいたのです。
目連は母のもとへ往き、鉢に盛ったご飯を差し出すのですが、母が口に入れようとすると燃えて炭に変わってしまい、食べることができません。
嘆き悲しんだ目連は、お釈迦さまにどうすれば母を助け出すことが出来るのか尋ねました。
お釈迦さまは、

「そなたの母は、犯した罪の深さゆえ餓鬼の世界に落ちたのである。
そなた一人の力では到底母を救うことはできない。
しかし、多くの比丘たちの功徳を集めれば、現在の父母ばかりでなく過去七世の父母と親族をも救うことができるだろう。
自恣の日に集ってくる多くの比丘たちに百味の食物をお盆に盛り、水差し、香油、燭台、敷物、寝具と共に供養しなさい。
そうすれば、比丘たちの功徳によって母は救われるであろう」

と諭しました。
そしてお釈迦さまは比丘たちに自恣の日に供養された食事を頂く前に、施主の家の七世前までの父母が救われることを念じ、禅定(ぜんじょう)を行じるように教えました。
それによって目連の母は餓鬼道から救われ、皆が歓喜したのでした。


『盂蘭盆経』に説かれる教えは、安居明けの7月15日の自恣の日、比丘たちの食事の供養をすれば仏・法・僧の三宝と、多くの比丘たちの功徳によって、現世と七世前までの父母を救うことができるというものです。
そしてお釈迦さまは、以後毎年7月15日にこの行事を行うように指示されたのです。

古来、このお経の名である「盂蘭盆」の原語は「ウランバナ」であり、「倒懸(とうけん|逆さまに吊り下げられる)」の意とされてきましたが、近年、辛嶋静志氏により、「盂蘭盆」とは自恣の日に比丘たちに供養される「ご飯を盛ったお盆」の意だと見解が出されました。

自恣の行事は、現在もタイやラオスで10月の満月の日に「雨安居を出る日」として行われており、日本の精霊流しのように、バナナの茎や竹などで作った舟を流す行事もあるそうです。


浄土真宗でのお盆は、先立った方がたのご生涯を偲び、共に過ごした記憶やご恩を振り返り、感謝の思いで仏さまに手を合わせる期間だと言えるのではないでしょうか。
先立たれた方がたとの尊い出会いに思いを馳せ、私たち一人ひとりが「自らのいのち」を振り返る機会ともなるでしょう。
その中で、かけがえのない人生の時を、阿弥陀さまのお導きの中で、光と智慧の世界であるお浄土へと歩むことができる私であることを、確かめることができるのではないでしょうか。
親鸞聖人は主著『顕浄土真実教行証文類』の末尾に、中国の道綽(どうしゃく)禅師のお言葉を引かれました。

『安楽集(あんらくしゅう)』にいはく、「真言を採り集めて、往益を助修せしむ。いかんとなれば、前に生れんものは後を導き、後に生れんひとは前を訪へ、連続無窮にして、願はくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽さんがためのゆゑなり」と。
【現代語訳】中国の道綽禅師は『安楽集』に述べられている。「真実の言葉を集めて往生の助けにしよう。なぜなら、先に浄土に生まれるものは後のものを導き、後から浄土へ生まれるものは先人を尋ね、果てしなく連なって途切れることのないようにしたいからである。それは、今を生きる数限りない迷いの人びとが残らず救われるためである

親鸞聖人が阿弥陀仏のご本願の教えをお説きくださったのは、道綽禅師の深い願いを受け止めてのことでした。


お盆を迎えるにあたり、先立たれたお一人お一人の尊い人生の積み重ねのうえに人類の歴史が刻まれ、その方がたの生命の伝承の末に、私があることを思います。
そのような長い歴史を経て、阿弥陀仏のご本願の教えが私に届けられたことを思う時、この教えが途切れることなく伝承され、後に続く人びとの人生の歩みを照らし、真実の道を指し示す光となって欲しいと願うのです。

(参考・引用『お盆』「浄土真宗のお盆」)

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2018年08月19日