目連尊者

お釈迦さまには「十大弟子」をはじめとして、たくさんのお弟子たちがいらっしゃいます。

その中から『仏説盂蘭盆経(ぶっせつうらぼんきょう)』の主人公でもある目連尊者(もくれんそんじゃ)について、お盆の記事で少し触れました。


『相応部経典(そうおうぶきょうてん)』には次のような目連尊者のエピソードが説かれています。

あるとき、お釈迦さまが舎衛城(しゃえじょう)の祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)にいた時に、遠く離れたマガダ国の王舎城(おうしゃじょう)に目連と舎利弗(しゃりほつ)はいました。

目連が舎利弗に語りかけます。

「いま私はある人と法について語っていました」

「いったい、誰と何を語っていたんだ?」

「お釈迦さまと法について語っていたのです」

「いやいや、お釈迦さまは遠く離れた舎衛城にいらっしゃるじゃないか」

「そうではありません。もちろん、私が神通力でお釈迦さまのところへ行ったわけではないし、お釈迦さまが神通力で私のところにお越しくださったわけでもないです。
お釈迦さまも私も、清浄なる天眼(てんげん)・天耳(てんに)を得ているからこそ、遠く離れていても法について語ることができるのです」

天眼・天耳とは、遠く離れたものを見たり、遠くの音を聞くことができる神通力という能力です。(詳しくはお盆2を参照)
この目連尊者とお釈迦さまのやり取りは、人間の肉体をもった仏さま(色身|しきしん)とではなく、真実・真理そのものとしての仏さま(法身|ほっしん)との対面について説かれています。


目連尊者は色身の仏さまであるお釈迦さまと法について語ったのではなく、法身としての仏さま──つまり、法そのものと語ったのです。
同じくお釈迦さまも真実の法と語り、目連尊者もその真実の法と語っていたため、対話が成立したということでしょう。


真実の法を通してお釈迦さまと対話する姿。これこそが仏弟子の姿であり、仏教徒の姿であるのかもしれません。

パーリ仏典経蔵中部に収録されている『象跡喩大経(ぞうしゃくゆだいきょう)』には、次のようなお釈迦さまの言葉がのこされています。

縁起を見るものは法を見る。法を見るものは仏を見る

また、『相応部経典』にも

法を見るものはわれを見る。われを見るものは法を見る

と説かれるように、法、つまり真実の法は縁起に他ならず、それを見ることがそのまま仏さまとあいまみえることとなるのです。

「私が神通力でお釈迦さまのところへ行ったわけではないし、お釈迦さまが神通力で私のところにお越しくださったわけでもないです」と目連尊者が言うのは、法身の仏さまと語って対面することが、色身の仏さまであるお釈迦さまと出会うことと同じであると示唆しているのでしょう。(参考法話|「」)


肉体をもった仏さまと出会うことができない現代の私たちに対して、仏さまと出会いたいと願うのであれば、真実の法と相対して問いかけ、語ることだということを教えてくれているエピソードです。
神通力とは超能力のように不思議な力ではなく、真実の法と向かい合い語る力のことともいえます。


しかし、私たちは煩悩に包まれて無明の闇を迷っているため、真実の法と語り合うことはできません。私たちの眼や耳では、法身の仏さまを見ることはできず、声を聞くことも不可能なのです。


そうした私たちであるからこそ、法身からのはたらきかけがなければ、法と出会うことができないということになります。
その法のはたらきこそが、どんな障礙や深い闇をも打ち破って届く光明の「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)」です。〈参考法話|金獅子の比喩

〈参考『仏弟子に学ぶ』内藤昭文〉

法話一覧

2017年07月16日