仏教と華道には深い関係があります。
室町時代の禅僧・太極の日記『碧山日録(へきざんにちろく)』(1462|寛正3)の記録に「池坊(いけのぼう)中興の祖」といわれる池坊専慶(せんけい)が文献上にはじめて登場しました。
「池坊の歴史はいけばなの歴史」といわれるように、日本を代表する伝統文化のひとつである「いけばな」「華道」の始まりは「池坊」にあります。
日本の華道の起源を辿ると、6世紀半ばに仏教が伝来したころに行きつきます。仏教とともに大陸から伝わったのが「仏前供華(ぶつぜんくげ)」です。
当初は樹木を立てて「神仏を招く依り代」という形で供華が行われていたといいます。依り代を安置することによって、神仏に影向(ようごう|一時的に姿を現すこと)を願っていたようです。
平安時代の『古今和歌集』に
染殿后の御前に、花瓶(はながめ)に、桜の花を挿させ給へるを見て詠める
とあることから、1000年以上前から「瓶に挿した花」を勧賞していた記録が残っています。
ただし、当時の人びとは自然界にある樹木・草花に、精霊や悪霊が宿っていると恐れていたため、観賞する目的で家の中に花を飾るという習慣はなかったようです。
花が家の中に挿花(そうか)として入ってきたのは、南北朝時代といわれます。
この時代に制作された『慕帰絵(ぼきえ)』には、桜の花を挿した花瓶を眺めている僧侶の様子が描かれています。
他にも松の盆栽が描かれていることから、『慕帰絵』は華道の歴史を辿るうえで貴重な絵巻です。
時代は下り応仁元(1467)年、京都を舞台に応仁の乱が勃発。11年間続いた戦によって京の街は焦土と化し凄惨を極めました。
戦乱の果てに人びとが見出したものは……草木のいのちでした。
時季が来ると、焼け野が原に芽吹く小さないのちに、人びとはどれほど感動したことでしょうか。
この戦乱を機に、花は神仏の影向を願うためではなく、私の心や願いを花々に託して草木の風興(ふうきょう|風情)をもととする「いけばな」が誕生しました。
当時、花の名手として活躍していた池坊専慶は、花を挿す技法のみではなく、思想的な面を含んだいけばなの理論を確立。後に花伝書の相伝をはじめました。
このころ、いけばなの中でもっとも早く成立した「立て花」の様式が生まれ、室町時代の中期から後期にかけて活躍した池坊専応(せんおう)が『池坊専応口伝』を著わし「華道」が成立しました。
その後、花の様式は「立て花」から「立花(りっか)」、さらには「生花(しょうか)」、明治に入り「盛花(もりばな)」「投入(なげいれ)」などの花形が生まれていきました。
〈参考文献・『季刊せいてん no.133』「せいてん華道教室」弓場洋子〉