他の宗派では尊前に造花をお供えすることもあるようですが、浄土真宗では基本的に生花しかお供えしません。
「枯れていく花のすがた」から、仏法の説く「諸行無常」の真理を味わうことが仏華の意義のひとつ……と考えられているのが理由のようです。
以前に紹介した『百通切紙(ひゃくつうきりがみ|浄土顕要鈔)』にも「生まれるということは死の始まりである。いつ終えるか分からない、必ず終えていく儚いいのちの無常を知りなさいと仏華が催促している」という旨が書かれています。
繰り返しになりますが、「必ず枯れていく花のすがたを通じて、必ず死んでいく自分自身の限りあるいのちを見つめる」というのが仏華の意義でしょう。
造花は枯れることがありません。死なないということは、生きていないということです。生死無常を説く仏法の真理とは相容れないことがわかります。
個人的には「造花であっても無常の真理から逃れることはできない。すぐに枯れることはないかもしれないが、永い期間が経てば造花も必ず朽ち果てていく。ということは、造花からも無常の真理を味わうことができるだろう」という屁理屈も成立するように思います。