400周年


築地本願寺にて「築地本願寺境内整備完成慶讃法要」と「本願寺江戸御坊創建400年記念法要」が勤修されました。


築地本願寺の前身である江戸御坊の創建から400年と、境内整備が完成したことを記念した法要です。

創建400年のあゆみ

築地本願寺は。1617(元和3)年、本山本願寺第12代宗主准如上人によって浅草の横山町に坊舎(掛所)が創建されたことを淵源とし、今年400年を迎えた。当初は「浅草御坊」と呼ばれていた。

浅草御坊は、江戸幕府の諸制度の形成期に整備され、1625(寛永2)年に幕府から公認された。しかし、1657(明暦3)年1月18日に発生した明暦の大火によって江戸市中の大半が焼き尽くされ、御坊も焼失し、死者は10万人と伝えられる。浅草での坊舎の再建は、幕府の都市改造のためにかなわず、替え地として指定されたのが、八丁堀の百間(180メートル)四方の海上であった。

御坊の再建は摂津国(大阪)から移住した佃島の漁師たちを中心とする多くの門徒が海の埋め立てをおこなって寺地を築き、1658(万治元)年に仮御坊を建立し、その後1679(延宝7)年に新御堂を再建して、築地御坊と呼ばれるようになり、本堂を中心に58ヶ寺を擁する寺内町が生まれた。

その後も、1703(元禄16)年11月の大地震、1783(天明3)年年9月の火災、翌1784(天明4)年の火災などがあり、天明4年の火災では本堂のみならず、寺中の大半も焼失した。第17代法如上人は関東・東北の僧俗にご消息を発布して御坊・寺中の復興をよびかけ、その後、浄栄寺本堂の提供を受け1795(寛政7)年8月に再建法要を修行した。

築地御坊は、江戸幕府の寺社奉行からの文書の受領や、寺院からの寺社奉行への願書などを取り次ぐ触頭の任にあたり、また関東の寺院を統括する役割を果たしていた。

明治の新たな時代を迎えて、近代化に対応すべく政府との交渉、旧弊を改める教団の改革、文明化を推進する拠点として、築地別院となり、多様な活動がはじまった。

しかし、以降も1872(明治5)、1893(明治26)年に火災があり、1901(明治34)年に本堂は木造建築で再建されたが、1923(大正12)年の関東大震災による火災によって本堂のみならず寺中の多くの寺院も焼失、多くの人びとが罹災した。築地別院では救護班を直ちに開設して懸命に罹災者の救護にあたり、その中には九条武子さまもおられた。本堂は1934(昭和9)年のに東京帝国大学名誉教授で建築家の伊東忠太氏の設計によって、インドの仏教建設を模した外観で再建された。この時、寺中の寺院の大半は築地から移転せざるをえなくなり、新たな地での伝道を再開した。

1945(昭和20)年に東京はたびたび米国軍による爆撃を受けた。ことに3月の大空襲は東京を焦土化するものであった。東京大空襲では、本堂の焼失は免れたものの、関係堂舎や多くの寺院、門徒が焼け出され、その際も築地別院は、罹災者の救護・支援の拠点となっている。

このように400年に至る間、築地別院は、幾度もの社会の激変や大火災・大震災・大空襲による困難を極める事態に直面しながらも、本願寺の別院として親鸞聖人が開顕された浄土真宗のみ教えを多くの人びとに伝え、往生浄土の道を歩む念仏者が集う拠点として歴史を刻んできた。江戸・東京の、そして東国・関東の人びとから心を寄せられるとともに、お念仏に培われた豊かな伝統・文化を広く社会に定着させる役割を果たした。

2012(平成24)年には、首都圏における伝道教化の中心道場としての役割を担う「直轄寺院」となり、これまでの「本願寺築地別院」から「築地本願寺」と名称を改めた。

この度の築地本願寺境内整備完成を機縁よし、浅草での御坊創建以来、幾多の困難に直面しながらも往生浄土の道を歩まれ、お念仏の弘通に専心された先人のご遺徳を改めて讃えたい。専如ご門主の伝灯奉告法要ご親教「念仏者の生き方」を体し、渾沌とする世界や日本の社会の現実に向き合おうなかで、人びとに寄り添い、対話と交流を広め、深めながら、宗祖親鸞聖人が開顕されたお念仏の教えを伝え、自他ともに心豊かに生きていくことのできる社会の実現に努力したいと思うばかりである。(本願寺史料研究長 赤松徹眞)


阿部信幾師による記念法話。


法要前には庭儀がありました。


法要後には本願寺史料研究長の赤松徹眞による記念講演。


境内にはカフェやブックセンターの入ったインフォメーションセンターや、合同墓などが新たに設置されました。

合掌

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2017年11月07日