「幸せという言葉は、仏教的には良い意味がない」
という法話をたまに聞きます。
しかし、世の中には「幸」の文字を使った名前の人もいるので、「愛」と同じように仏教的に良い意味も見出したいところです。
「浄土三部経」には「幸」という漢字が一ヵ所だけ出てきます。
浄土真宗関係者なら定番のおつとめ「讃仏偈」の「幸仏信明(こうぶつしんみょう)」です。
幸(ねが)はくは仏(世自在王仏)、信明したまへ、
ここから「法蔵菩薩が世自在王仏や諸仏方に自らの志を認めていただくよう請う段」が始まります。
「しあわせ(幸せ)」ではなく「ねがう(幸う)」という意味で「幸」の文字が用いられています。
「幸」を「願」と同義で用いる訓は浄影寺慧遠の『無量寿経義疏』によっています。
海や山の恵みを「海の幸(さち)」「山の幸」と表わすように「ねがい」が「めぐみ」となって「しあわせ」となる……と、以前ある法話で聞きました。
つまり、一切衆生を救済する仏となりたいという法蔵菩薩の「ねがい(幸い)」が、成就をして私たちのもとに南無阿弥陀仏の「めぐみ(幸)」となって、私たちを往生成仏せしめて「しあわせ(幸せ)」を与える……と味わえるのではないでしょうか。
ちなみに「幸仏信明」の前後には「願我作仏」「普行此願」「発願於彼」とあります。
では、どうして「願仏信明」ではなく、「幸仏信明」なのでしょうか?
漢字の専門家ではないので、よく分かりませんが「願我作仏」「普行此願」「発願於彼」は「誓願」であり、「幸仏信明」は「(世自在王仏へ)請い願う」である……というニュアンスの違いではないでしょうか。
詳しい人がいたら教えてください。
合掌