築地本願寺で講座を受講。最後に先生からこんなお話がありました。
個人的なことで恐縮ですが、私が大学院時代にお世話になった先生は、授業の中で必ず伝統宗学の悪口をひとつはおっしゃっていました。
「伝統宗学というのは、親鸞と覚如、存覚、蓮如が同じ信心であるということを前提としているから無理がくるんだ。特に親鸞と蓮如が同じというのが、無理がある」
そういう風に「これまでの解釈は間違っている」という話ばかりを聞いて大学院を卒業しました。
しかも、それを心の叫びのようにおっしゃっていたので私は「そうなんだ」と引き込まれました。熱心に話されると引き込まれるものです。
「そうか、伝統宗学というのはそんなカビの生えた時代遅れの宗学なんだ」と心の底から思っていました。
ところが、それから5年くらいの間、そういった教学とはまったく別の自分の実存問題について──浄土真宗でいうところの「後生の一大事」と向き合い、浄土真宗の教えを慶ばせていただく身となりました。
そうすると、カビが生えて、時代遅れで、今の時代に通用するわけがないと思っていた伝統宗学の言葉が生きて立ち上がってまいりました。
「あぁ、そうか。これはこういう心で熟知されていたのか」
というところが味わえるようになりました。
ここは、いわゆる「学問」とは違うんです。そういう世界があるんだなということを、大げさに言えば体感させてもらいました。
皆さんも、客観的な学問として追求されるのではなく、自らの仏道としてこれからも歩まれますように……。
自分の問題を差し置いて学問にのめり込んでしまうと、かえって宗教の本質が見えにくくなるのかも知れません。
講座後に聞法ホールで法話をお聴聞。栃木県の宗崎先生です。
笑いをまじえながら、身近な話を例話として「お育て」ということについてお話しくださいました。
合掌