1231(寛喜3)年4月14日(実際には4月4日)の正午ころから、親鸞聖人(当時59歳)は風邪をひいて高熱を出し、頭痛もひどい様子でした。
寝込んで4日後(実際には8日後、4月11日)の明け方、聖人は苦しそうな中で「まはさてあらん」とおっしゃいました。
「うわごとを仰せですか?」と妻の恵信尼さまは、詳細を尋ねます。
「寝込んで2日目から『無量寿経』を絶え間なく頭の中で読んでいました。目を閉じると、経典の文字が光り輝いて見えました。不思議なことです。南無阿弥陀仏の念仏によって浄土に往生すると疑いなく信じる以外に、私はいったい何が気がかりなのだろうか……」
時は17年前に遡ります。1214(建保2)年のことです。42歳の親鸞聖人は、上野国(現在の群馬県)の佐貫という土地で、浄土三部経を千回読もうとしことがありました。
経典を読誦した功徳によって、人びとに利益を与えようとしたのです。しかし、これは「自力の行」です。
親鸞聖人が仰ぐ阿弥陀如来のご法義は、「阿弥陀さまのおはたらきによって、生死の迷いから離れる」という「他力の教え」です。自力が関与する余地はありません。
聖人は三部経を読誦し始めて4~5日ほどして
「私はいったい何をしているのだろうか。善導大師の『往生礼讃』に自信教人信 難中転更難といわれているように、自ら信じ、そして人に教えて信じさせることが、まことに仏の恩に報いることになる。そのことを信じていながら、南無阿弥陀仏の名号を称えることの他に何の不足があって、わざわざ経典を読もうとしたのか……」
と、思い直して読誦をやめました。
それから17年が経ち、冒頭のうなされて目覚めたシーンに戻ります。
「あのときの心が、今でも少し残っていたのかもしれない。人が持つ執着の心、自力の心は、よくよく考えて気をつけなければいけません。それから後は『無量寿経』を頭の中で読むのをやめました」
──この出来事を「寛喜の内省」といいます。
他力のみ教えに帰依されて30年……それでもなお自力の心が残っていたのかと、聖人は苦悩されていたのでした。
私たち浄土真宗の僧侶も日常的にお経を読みます。しかし、お経の功徳を他に振り向けようという思いで読むのではありません。仏さまのお徳を讃め嘆えさせていただくのが、浄土真宗の読経です。
私自身は「お経の功徳で人を救おう」と考えたことはありませんが、自分の力を手柄にしようとする心は常につきまとっています。
「よくよく思慮あるべし」
という聖人のお言葉を大切に味わわせていただきましょう。〈参考『季刊せいてん』より〉
合掌