恵信尼さまがご紹介くださった「寛喜の内省」というエピソードには、寝込んでいた親鸞聖人が、
「まはさてあらん」
と仰るシーンがあります。
この「まはさてあらん」については、「まあそうであろう」「本当はそうであろう」など解釈がいろいろあるようですが、大きくふたつにわけると
「真(ま)はさてあらん」⇒「やはりそうであろう」
「今(ま)はさてあらん」⇒「これからはそうしよう」
といった解釈になるそうです。
どちらにしても、聖人の「人の執心、自力のしん(心)」に対する深い自覚から出た言葉でしょう。
前者は、「自ら抱えていた自力のはからいを内省された言葉」として解釈する見方です。
後者は、「そうした自力のはからいに気をつけなければならない──と自制された言葉」として解釈する見方です。
私が参考にした本願寺出版社の現代語訳本では、後者の解釈が採用されていました。
ただ、個人的には文法的にも文脈的にも、どちらの解釈も違うような気がしています。
暇なので、また近日中に詳しく調べてみます。
合掌