ひと

以前、こんな記事を読みました。

アスリートにとって、靴は、そのメーカーのものを履けばおカネがもらえるというようなものではなく、その靴を作る人との関わりが重要になっていることがわかり、面白いなあと思ったんです。

日本には、元アシックスの靴職人、三村仁司さんという方がいらっしゃいます。高橋尚子さんや野口みずきさんなど名だたるアスリートの靴を作り続けていた方ですが、三村さんがアシックスを退職して独立し、アディダスと専属契約した瞬間、アスリートたちもアディダスを履きだしたんですよ。ああ、彼らはメーカーについていたのではなく、人についていたんだなと。

三村さんは、おそらく世界で1番、アスリートたちの足を実際に触り、見続けてきた人だけあって、誰にどんな走りをしてほしいのかという、走りに対する思想や哲学がある。これはいくらおカネを積まれても代えられない。アスリートファーストなんですよね。〈引用『東洋経済オンライン 箱根駅伝「薄底vs.厚底」靴の知られざる闘い』〉

プロのアスリートであっても、単純にいい靴かどうか以上に「誰が作るか」や「作る人と使う人の関係性」が大切のようです。


仏教を伝えることも同じだと思います。教えの内容が素晴らしいのはもちろんですが、その道を生きる人や伝える人がどんな人間であるのか、どんな関係であるのかによって仏教の広がり方は変わるのではないでしょうか。


「言ってることは正しいけど、こいつに言われても響かない」という経験は誰にでもあるものです。「何を言うか」よりも「誰が言うか」──ここに尽きます。


もうひとつ大切なのが相手と自分との関係性です。どんなに素敵な人であっても、知らない人や仲良くない人の言葉は届きません。


浄土真宗の宗祖である親鸞聖人は、当時は念仏未開の地であっただろう関東で多くの門弟を育てました。また、親鸞聖人から数えて8代目の宗主であった蓮如上人も、爆発的に門徒を増やして本願寺の隆盛を築きました。


なぜ、そんなことが可能だったのでしょうか。浄土真宗の教えが素晴らしかったから、布教手段が革新的だったから、時代・人・地域の要請と合っていたから――いろいろと推察できますが、何よりも人を惹きつける魅力に溢れ、カリスマ性に秀でていたからと私は考えています。

合掌

前の投稿

次の投稿

2018年03月25日